とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

現代社会はどこに向かうか

 久しぶりに見田宗介の最新刊を読んだ。見田宗介も既に80歳を超えた。さすがに長文の論文ではなく、わずか162ページほどのコンパクトな新書本。内容としては既に広井良典氏などが書いてきた「グローバル定常型社会」を見田氏なりの書きぶりで書いているという感じがしないでもない。「はじめに」で指摘する、1970年代には既に人間の増殖率は減速局面に入り、「定常期」に入っているという事実にはドキッとした。また、グローバル・システムを球体の無限にして有限な「閉域」として捉える視点も、いかにも見田宗介らしい。

 そして、それ以前の近代における根本理念(<自由>と<平等>)と現実原則(<合理化>)が矛盾し、合理化を進める上での生産主義的・未来主義的・手段主義的な考えが、却って、自由と平等の近代理念を損なってきた事実を指摘する。その上で、新しい未来社会における公準として、<肯定的>、<多様>、<現在を楽しむ>という3点を挙げる。さらにそれを、1970年代以降に育った者たちの生活信条や幸福感を統計的に挙げて、次の時代の方向性を指し示す。

 それらは本当にわれわれにとって大きな心の支えになる。一方で、まだ現実社会は、グローバリゼーションが席巻し、際限のない欲望に絡み取られて、未来主義、手段主義の感覚から逃れられないでいるように感じる。それは私がここ1年ほど、商業施設に近いところで仕事をしているから、特にそう感じるのかもしれない。人々の欲望を搔き起こすことで回っていく経済的社会。これは最後の断末魔なのか。とは言っても、そう簡単には時代は変わらない。

 最終補章には、100年の革命という記述がある。それとて「速い革命」だと。しかしまた同時に「この<肯定する革命>は・・・創造する革命であり、・・・現在の生における解放として楽しまれる革命であるから、自分の周囲に・・・つくられたその時にすでに、それだけの領域において、革命は実現しているのである」(P158)とも。ではまずは自分の周りから少しずつ、小さな革命を始めていこうではないか。新しい時代は既に私たちの周りで少しずつ始まっているのだと信じて。

 

 

○数千年来少しずつの増殖を重ね、産業革命期以降は加速に加速を重ねて来た人間の増殖率は・・・1970年代という時代に、史上初めての急速な減速に反転し、以来現在に至るまでおそらく増殖の停止に至るまで、減速に減速を重ねることとなった。これは1970年代以降、人間は歴史の第二の巨大な曲がり角に入っていることを、端的によく示している。(はじめにⅲ)

○球はふしぎな幾何学である。無限であり、有限である。球面はどこまでいっても際限はないが、それでもひとつの「閉域」である。/グローバル・システムとは球のシステムということである。どこまで行っても障壁はないが、それでもひとつの閉域である。・・・21世紀の今現実に起きていることの構造である。グローバル・システムとは、無限を追求することをとおして立証してしまった有限性である。(P13)

○近代の根本理念は<自由>と<平等>ということであった。他方・・・近代の現実原則は<合理化>ということであった。社会のすみずみ、生のすみずみの領域までもの、生産主義的、未来主義的、手段主義的な合理性の浸透ということであった。手段主義的とは、現在の生を、それ自体として楽しむのではなく、未来にある「目的」のための手段として考える、ということである。・・・近代家父長制家族が、このような近代の現実原則による、近代の理念=自由と平等の「封印」ということを、現実の社会の基底において実行する装置であった(P38)

○日本の青年たちの価値の感覚が、シンプル化、素朴化、ナチュラル化という方向に動いていること・・・フランスの急速に増大する「非常に幸福」な青年たちの幸福の内容を充たしているのが、他者との交歓と自然との交感とを基調とする・・・<幸福の原層>の素直な解放であるということは、高原期に人間を形成した最初の世代たちが・・・その生きられる感覚において、環境容量のこれ以上の拡大を必要としない方向で・・・生きはじめているように思われる。(P122)

○20世紀の・・・根底にあるものとしてわれわれが見出したのは、第一に「否定主義」・・・第二に「全体主義」・・・第三に「手段主義」・・・という感覚である。・・・新しい世界を創造する時のわれわれの実践的な公準は・・・第一にpositive。肯定的であるということ。/第二にdiverse。多様であること。/第三にconsummatory。現在を楽しむ、ということ。(P152)