とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

戦国日本と大航海時代☆

 正直、期待していなかったので、読むのが遅くなってしまった。非常に面白い。なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか? それは、世界征服を狙い、ポルトガルとスペインが東アジアへ進出してきており、それに対抗するためだった。ポルトガルとスペインは当初、南米等と同様に武力での征服を考えていたが、それが困難と認識して以降は、布教による日本征服をもくろんだ。信長はそうした意図を十分わかった上で、「硬軟両様の手管を使ってイエズス会を籠絡した」(P52)。信長の世界観を秀吉も共有しており、そのための朝鮮出兵であった。

 家康の時代に入ると、ポルトガルとスペインに加え、オランダとイギリスが参入してきた。こうした情勢の中で、家康は布教の影響と貿易の利を天秤にかけ、少しずつ布教の自由を制限していった。そうした状況下で、伊達政宗支倉常長を長とする慶長遣欧使節が派遣されることとなった。この派遣について、家康と政宗には、伊達領を「布教特区」にするという合意があったのではないかという説明は面白い。しかし、支倉常長が戻って来た時には、大坂城も陥落し、豊臣家が一掃されたことで、徳川家の一極支配が決定的となった。そこへ支倉常長が持ち帰ったスペイン側の回答は、布教がなければ貿易もないという歯牙にもかからない内容だったため、2日後には伊達藩にも禁教令が発令された。

 そして、国内統一を達成した徳川政権は、その強大な軍事力を背景に、長崎への貿易集中と幕府管理体制を完成し、「ヨーロッパ列強をも日本主導の管理貿易下におく」(P14)こととなった。「弱くて臆病だから鎖国」ではなく「強かったから鎖国」(P14)ができたのである。

 なるほど。こうして信長から家康・秀忠の時代の政治状況を世界史の中に置いてみると、確かに当時の政策の意味などが見えてくる。もっとも「あとがき」で筆者は、「歴史の解釈は固定的でないほうがよい。歴史に対しては多様な解釈が可能だからである。」(P276)と書いている。本書もそうした解釈の一つだということ。だが、その後に続く「世界史は相互影響のなかで動いている」とも書いている。まさにそういた視点に立った時、秀吉の朝鮮出兵など、これまでただの酔狂と混迷の結果と思われてきた行動に、明確な理由が見えてくる。確かに歴史って面白い。多くの史料を読み込み、想像力を膨らませ、かつ謙虚でいること。最近の歴史ブームの理由が見えてくる。

 

 

イエズス会日本準管区長ガスパルコエリョ・・・は、日本66か国すべてが改宗すれば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で怜悧な兵隊を得て、いっそう容易に明国を征服することができるであろうとも述べている。日本支配への意欲がみなぎっている。明国支配の前段としての日本制服という位置づけは・・・明確である。(P38)

聖母マリアのことを「観音」、天国のことは「極楽」と訳していた。神様の訳語は「大日」であった。大日如来の「大日」のことである。・・・つまりザビエルたちは日本人に「大日を拝みなさい」と呼びかけたわけであるから、日本人たちはキリスト教を仏教の一派だと思って抵抗感なく受け入れたということだろう。(P46)

○秀吉による朝鮮出兵は、たんに日本と朝鮮との関係、あるいは日本と明国との関係だけで考えるべきではない・・・。北京は天皇に預けて、みずからは寧波を居所とする。それが秀吉が明らかにしたアジア支配構想の眼目であった。いわば寧波からアジアを支配する・・・。そのアジアの海には、デマルカシオン(世界領土分割)を国是として世界支配をねらうポルトガルとスペインが姿を現していた。秀吉は、両国の野望を知っていた。(P98)

○家康のメキシコ副王宛の書簡には布教禁止が明記されている・・・。しかし、伊達政宗がスペイン国王やローマ教皇に宛てた親書では宣教師の派遣を求めている。家康と政宗の考えている方向は正反対だといってよい。・・・だが、方向性の異なる二つの方策を一致させる手段が一つだけある。それは、布教は伊達領に限る、という合意である。現代風にいえば、布教特区とでもいうべきアイデアであった。(P169)

○圧倒的な武力と策略をもって世界中を植民地化してきた両国(ポルトガルとスペイン)であっても・・・すごすごと退散せざるをえなかった。・・・こうした力を背景に、長崎への貿易集中と幕府管理がおこなわれることになる。・・・イギリスやオランダも海洋大国である。これら両国が唯々諾々と幕府の指示に従ったのは、幕府が強大な軍事力を有していたからであった。・・・なぜ日本が「帝国」と呼ばれるようになったのか。そこには、こうした日本の実力的根拠が存在したからであった。(P267)