とんま天狗は雲の上

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「知識の時代」→「暴力の時代」→「経済の時代」

 最近、歴史本をよく読んでいる。読みながら、時代は、「知識の時代」→「暴力の時代」→「経済の時代」と変化しているなあと感じた。

 「知識の時代」とは、知識に優れた者がリーダーとなり、民衆を収めた時代。この場合、知識とは、その地域の人々を襲う危険や人々の間の諍いなどを知識や知恵で治めて、人々に進むべき方向、生きる方途を導き、教えることを言う。すなわち、宗教者や皇帝、天皇などがその言行で人々の尊崇を集め、リーダーとして人々を導き、社会を治めた時代。

 しかし、こうした支配の下で不遇をかこつ者の中から、知識人に対して暴力でもって抵抗し、滅ぼし、そのことで民衆の尊崇を集める人々が出てくる。武士だ。彼らは知識だけでは収まらない矛盾を暴力でもって決着をつけ、社会を治めていく。「暴力の時代」だ。

 だが、そうして生命の安全が保たれ、精神的にも安定すると、人は他人と比較をしてしまう。より豊かな人生を求める。それまで単に物々交換の道具でしかなかった貨幣が、その多寡により暮らしぶりに差が生じると、より多くの金銭を持った者がより偉い者となり、人々の上位に立つようになる。「経済の時代」だ。

 こうして人類は、「知識の時代」「暴力の時代」を経て、現在は「経済の時代」に生きている。だが、それも最近は大きく揺らぎだした。経済的に豊かであれば本当に幸福なのだろうか。経済的・物質的豊かさよりも精神的な豊かさを求めるべきではないのか。今、時代は再び「知識の時代」に戻りそうな雰囲気を感じる。

 というようなことを思い付いたが、似たようなことを、昔、誰かの本で読んだような気がする。そうだ、ラビ・バトラだ。だが、Wikiで調べてみたら、少し順番が違う。バトラは「社会は、戦士、知識人、資本家の順で支配される」と言っている。どうかな? そもそもこうした単純な分類で人間の歴史と未来を捉えること自体がどうかと思わないでもないが。あ、もちろん自分にはね返っているのは自覚しているけど、こんな場末のブログで書き散らす分には大して意味も影響もないだろう。

 調べてみたら、ラビ・バトラは1993年のイグ・ノーベル賞を受賞していた。世間的にはそうした評価なのだろう。だが、多くの人が「経済の時代」に愛想をつき始めているのは間違いないようにも思うのだが。