とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

大化改新を考える

 このところ歴史興味から本書を借りて読むことになった。「そもそも大化改新って何だっけ」というレベルだから、なかなか読み終えるのは難しかったのだが、大化改新詔の原文から読むというのはこれまでになく、筆者とともに、主文・副文を読み解いていくのはとても興味深かった。

 そもそも、「日本書紀」に書かれている「大化改新」詔は大宝律令が定められた8世紀になって書かれたものであり、多くの改竄がある、という前提から、他の同時期に発せられた詔や木簡などを参照しつつ、本来の「大化改新」詔はどうだったのかを検討していく。そして、「乙巳の変」と「大化改新」自体が中国の唐帝国の影響を受けて、高句麗百済で起こった政変と地繋がりのものであり、さらに日本書紀が書かれる背景にも中国に対する外交的な方針が反映していた。こうした当時の国際情勢を視野に入れつつ、「大化改新」詔を一句ずつ検証していくと、当時の習俗・慣習やそれを改めようとする政権側の意向などが見えてくる。

 こうした研究態度自体が本書からよく見えて、歴史研究とは何かということも同時に見えてくる。かなり地道な作業である。そしてどこまで行っても過去は断定できない。それでも1300年近くも以前のことだが、人間の考えることは大して変わっていないようにも感じる。いや、それこそが現代人を古代人に反映させ過ぎているのだろうか。それすらわからない。わからないということは楽しい。それが歴史研究の醍醐味なのだろう。

 

大化改新を考える (岩波新書)

大化改新を考える (岩波新書)

 

 

唐帝国覇権主義が周縁諸国に及びだし、各国の国王と貴族勢力とが、権力集中をめぐって争う事態が起こってきた。貴族が実権を握る高句麗型の政変と、国王が権力を集中した百済型の政変が相次いで生じ、その状況が倭国に伝えられたのである。(P29)

〇暗殺事件が「乙巳年」(645年)に起こったので、このクーデターは「乙巳の変」と呼ばれている。/東アジアに視野を拡げれば、朝鮮半島高句麗百済の政変に続き、日本列島では王権側が権力を自らに集中させた百済型と同じような政変がおこなわれたことになる。(P33)

〇新しく用いられた「郡」「町段歩」の単位は、当時の唐でも使われておらず、倭国が独自の小帝国としての面目を強調したものである。とりわけ「国・郡」は、中国の古典的な時代と思われる前漢の単位である。このように、潤色の理由は詔にみられる「評」や「代」など、蕃国の制度に基づく単位名称を抹消し、大唐帝国と比肩できるような法治国家の始原として、改新詔を提示することにあったと考えられる。(P72)

大化改新のめざすところは、全体として王権による権力集中にあった。支配体制としては、部民制を廃止し、地域の行政機構(評-50戸制)を通じて公民を育成することにあった。具体的には、旧来の国造制を廃止し評を立てることであった。(P115)

〇『書紀』の編者は、改新の原詔を大宝令の条文で修飾し、あたかも大化改新律令制の起点であったかのように、歴史を「修正」した。……大化改新によって部・部民制が廃止され、かわって公民制が創出され、国造制が廃止されて新たに「評」制度が施行された。部・部民や評は、朝鮮半島の制度を日本的に運用したものである。しかし、改新期の国家機構の名称は、中国的な官職名を使用しており、大陸と半島の支配制度を組み合わせた「二重の支配制度」とも呼べる体制である。中国的な律令によって、多くが一本化されるのは大宝律令を待たねばならなかった。(P223)