とんま天狗は雲の上

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日本の歴史をよみなおす(全)

 網野史観が一時、話題になったことを覚えている。その時に読めばよかったが、当時は今ほど歴史に興味がなかった。このGW中に本書を持ち歩き、暇を見ては読んでいた。面白い。英雄だけが歴史じゃない。そして庶民の生活もこれまでの常識を大きく変える歴史観を披露している。やはり大いに話題になるわけだ。網野以前と以降で日本の歴史学も大きく変化したといっていいのだろうか。民俗学との融合という感じもしないでもないけど。

 今さら私が本書の解説をしてもしょうがないけど、興味を引いた点について少し紹介しておく。まず「第1章 文字について」。律令国家の成立が文字の普及に大きな役割を担っていたという見識は興味深い。話し言葉としての片仮名と女性や庶民の言葉としての平仮名についての考察もあるが、こうした仮名の存在というのも日本の識字率が高い要因の一つなのだろう。平仮名文学の隆盛から見るに、現実世界では女性の活躍が顕著だったのではないかという考察も興味深い。

 第2章・第3章では非人がかつては必ずしも蔑視される存在ではなく、商工業やサービス業を担う存在だったのでないかと指摘する。「続・日本の歴史をよみなおす」では百姓について考察しているが、確かに農業だけで社会が廻るわけもなく、建前の世界と実際の社会のあり様はしっかり区別してみておく必要がある。また、「第5章 天皇と『日本』の国号」も天皇の退位・即位、そして改元の時期にあたり、何かと興味深い考察がされている。中でも江戸時代までの天皇は仏教との結びつきが強かったという指摘は興味深い。そういえば先日の「英雄たちの選択」では、光格天皇以前は「天皇」を使わず「○○院」と号していたと言っていた。

 そして後半の「続・日本の歴史をよみなおす」ではもっぱら、日本は実は農業国家ではなく、国家内だけでなく海外との交易も盛んな状況だったことを指摘している。それも平安末期の平政権頃からではなく、縄文時代から既にそうだったのではないかと縄文遺跡の出土品から指摘する。これは必ずしも筆者の業績ではなく考古学者の最近の研究成果かもしれないが、日本の成り立ちについて原点から考えてみるいい刺激となる。

 過去の庶民の暮らしが現在の私たちの生活につながっていることが本書を読むとよくわかるし、理解できる。私たちの現在の暮らしや文化はけっして明治以降や戦後だけで成立しているわけではない。が一方で、こうしたほんの短い間の経験や思想的誘導で間違って思いこまされていることが多いことにも気がつく。過去を深く多様に見ることは、現在やこれからの私たちの暮らしと社会をより深く多様なものとすることにつながる。もっと自由に幅広く世界を、社会を捉え、見ていきたい。本書を読んでそう思い、また勇気づけられた。

 

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

 

 

○これまで、神仏と直接つながりをもっていることを根拠に、一般の平民とは異なる聖別された身分という意識をもっていた職人たちも、もはや古い神や仏に頼っていたのでは、とうてい自分たちの特権を保持することができなくなってきます。/ですから15世紀になると、商人や手工業者たちは守護大名のような、世俗的な権力に特権の保証を求めていくようになります。/こうして14世紀を境にして、商業、公益、金融のあり方、あるいはそれにたずさわる人―承認、手工業者、金融業者のあり方そのものが大きく変化をしてくる。(P074)

○中国の律令制……を受け入れたので、法制的には、日本の律令国家も男性優位、父系、家父長制を採用……しかしこれは……あくまで建前の世界のことで、実態はかなりちがう。……表の感じの世界、公的な場は男性なのです。しかし、平仮名の世界、私的な裏の世界での女性の活動も決して小さいものではないのです。……実際……後宮の女房による独自な女流文学が生まれたことは、女性が自分の目をしっかり持っていたことを示していると思います。(P172)

天皇の称号が定着した持統以来、江戸時代までの天皇は、二、三の例外を除き、みな火葬で、聖武以来仏式ですし、墓も泉涌寺を始め、寺院に葬られていたのです。……昭和天皇のような葬儀や墓は、明治以降になって、天皇号の定まる以前の、いわば古墳時代のころのやり方を「復興」する形ではじめられたので、これを「古来の伝統」などというのは、まったくおかしいことだと思います。(P204)

縄文文化が「島国」の中に孤立した文化であったとする見方は、完全に誤りであることが明らかになってきました。/日本列島の内部でも、海を通じていろいろな物が動いていたことがわかってきており……商業の開始についても……交易のために物を生産することが行われていたとすれば、商業がすでに行われていたといってよいのではないかと思います。(P273)

○国守は……都の周りの交通の要地……に納所とよばれる蔵を設定しており、その蔵に、国で集めた物資を独自に河海の交通を利用して運んで集積しておきます。そして朝廷や寺社などに要請されると、そこから一定額の物資を政府や寺社などに納めるというやり方をしているのです。……ですから、10世紀以降になると支配者の意向にかかわらず、独自に展開している活発な商工業、流通、河海の交通を前提にして、はじめて国家体制が成り立っているということになります。(P307)

○これまで日本の社会は、全体として非常に農業的な色彩が強く、近代以前は完全な農業社会と考えられてきました。しかしこの理解は、百姓=農民という誤った思いこみのうえに立った完全な誤りで、日本列島の社会は……はるかに非農業的な色彩が強かった……/とくに鎌倉時代以降……の社会は、銭貨の流通が活発になり、信用経済といってもよいような状況が展開し、……少し大胆にいえば、これは資本主義的といってよいぐらいだと思うのです。(P379)