とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

街場の平成論

 元号が変わってもう3週間が過ぎようとしている。あまりに「令和」「令和」と連呼するものだから、前の元号が「平成」だったことをもうすっかり忘れそうだ。そもそも「平成」と言われた30年間を切り取って、どんな時代だったかと振り返っても、その区切りにどれだけの意味があるのか、と問わざるを得ない。と、このような書き出しで始まる論文もいくつかあるが、内田樹自身の論考も含めて、全部で9編。それぞれがそれぞれの立ち位置で内田樹からの依頼に応えて論文を書いている。そしてそれらを読むと、「やはり平成という時代は、特別な時代だった」という気がしてくる。少なくとも人口増から人口減へ、経済成長期から成熟期へ、そして世界情勢も含めて大きな転換期だったように感じられる。

 しかし論を寄せている彼らは、そのことを自慢げに披露したりしない。逆に慎ましやかに、「私にはとてもそんなことを言える能力も資格もありません」と言う。それでも30年という期間を取れば、たとえ元号が変わろうが、変わるまいが、社会状況は大きく変化をしている。そのことをそれぞれの立場で書かれると、30年の時の長さを感じずにはいられない。30年前の物差しは現在では全く通用しない。そしてそのことを確認することには多少の意味があるようにも感じる。平田オリザは日韓関係の30年間の変遷を語り、ブレイディみかこは女性問題を語る。白井聡は歴史の見方を問い、中野徹生命科学史も面白いし、釈徹宗の宗教論も興味深い。

 平川克美が「日本人は個人を金で買った」と言えば、小田嶋隆が「個人から群れ適合な個体へと進化(?)した」という趣旨のことを書く。どれも面白い。結局、僕らはどうなるのだろう? 内田樹は「ある種の涅槃状態に入った」(P046)と言う。涅槃状態のまま、レミングの群れのように海へ飛び込んでいくのだろうか。それは幸せか? いや「幸せかどうかなどという質問自体、彼らにとっては次元の低い話なのかもしれない」(P185)。小田嶋隆はそう締めくくっている。

 

 

○国力が衰徴してきたことのもっとも際立った特徴は、「国力が衰徴したのは誰のせいだ?」という他責的な言葉づかいが幅を利かせるようになるということなのである。これこそが国民的な知的劣化の指標なのである。……例えば、安倍政権の長期支配を日本の国力が衰徴したことの「原因」に挙げる人がいるかも知れないけれど、私はその判断に与しない。落ち目の国だからこそあのような人物が長期政権の座を享受できているのである。安倍政権の繁盛は「結果」であって、「原因」ではない。(P028)

○昭和から平成にかけてのヒット曲の歌詞を検証してみれば、国民の文芸リテラシーの崩壊的低下(「3歳児でもわかるようなフレーズ」の増殖)は明白であると思われるが、それは……日本人が感情を表現する能力が低下してきたことではなく、感情そのものの質の低下を示唆するものであろう。(P120)

○「消費者」は、これまでの古い慣習や、しがらみから自分を解き放つことが可能な存在であった。一人の時間を大切にし、誰からもその行動を干渉されず、好きなときに好きなものを自由に所有することができる。……考えてみれば、「消費者」は、革命を経なかった日本人が初めて手にした「個人」であったとも言えるのかもしれない。……但し、金さえあれば。……日本人が獲得した個人の観念は、金で買ったものであり、金がなければ、その個人とは社会によって淘汰され、そのフルメンバーから除外される危険性もあったのだ。(P152)

○なるほど。/平成の秘密がわかったぞ。/スマホを装備しインターネットにぶら下がることになったわれわれは、脳を外部化し複数のネットワークでつながることを通じて、一つの巨大な群れになった。/とすれば、多少貧しくても将来に夢がなくても特段に不満はない。/なにしろアイデンティティーが自分にではなく、群れにあるわけだから。(P185)