とんま天狗は雲の上

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「表現の不自由展・その後」で展示されたもの

 あいちトリエンナーレで「表現の不自由」展が開催され、多方面から意見や脅迫などもあり、わずか3日間で展示が中止されることになった。名古屋市の河村市長や維新の会の松井代表は展示を批判するコメントを出し、菅官房長官補助金の精査について言及した。一方、大村愛知県知事は「ガソリン携行缶を持ち込むぞ」という脅迫ファックスがあったことなどを挙げて、安全性を理由に中止を決めたと会見で説明した。芸術監督の津田大介氏もほぼ大村知事の会見をなぞるような説明をし、多くの方に迷惑をかけたことなどを謝罪した。

 また、「表現の不自由展・その後」実行委員会からは中止に対する抗議の声明文が出され、作品の作者からも展示中止に対して批判が出ている。中止に反対するデモもあった。ちなみに「表現の不自由展・その後」で展示された作品については、以下のサイトなどで詳細に紹介されている。「『表現の不自由展』は、どんな内容だったのか?昭和天皇モチーフ作品の前には人だかりも《現地詳細ルポ》:ハフポスト」 しかし問題は展示された作品ではないのではないか。

 「表現の不自由展・その後」を巡る騒動を観ていると、日本各地の動物園にもあるという「ヒトの檻」を思い出した。すなわち、「ヒト」と書かれた檻の中には1枚の「鏡」があり、そこに自分の姿が映るというもの。「表現の不自由展」に展示された作品は実はこの「鏡」に過ぎなくて、実際に展示されているのは「鏡」に映し出された人々の姿。すなわち「作品と展示を批判する河村市長ら」や「脅迫を行う人々」、そして最大の展示物は「菅官房長官のコメント」。いかに今の日本が『表現の不自由』な状況にあるのか。そのことが今回の「表現の不自由展」では実に鮮やかに展示された。

 芸術監督の津田大介氏も中止について、表向きは残念そうなコメントを述べていたが、実は「菅官房長官のコメント」を聞いて、「してやったり。思った以上に大きな作品が展示された」とほくそ笑んでいるのではないか。できれば安倍首相がこの種のコメントをすればもっとよかったとか。展示を批判する者が騒げば騒ぐだけ、展示の目的と成果が大きくなっていくという、まさに「合わせ鏡」な状況。実にうまい企画だったと評価したい。

 それにしても、「表現の自由」を表現者はもちろん、右翼などもよく口にするが、人間にとっての自由の意味については、哲学的には古くから議論の的となってきた。自由ほど不自由なものはなく、人間はそもそもある程度の枠組(フレーム)や規範がないと生きていけない動物である。しかし一方で、現代ほど抑圧が人間を苦しめている時代もないのではないか(それともこれは日本のこと?)。

 芸術作品ですら、一定の枠組があってこそ表現が可能となり、展示という行為が実現する。今回の「表現の不自由展・その後」は実に「表現の不自由度」を映し出す企画であり、文化的なパワーを持っていたと評価するが、実は「どれだけ不自由か」を測るのではなく、「どれだけ抑圧されているか」、そして「どれだけ抑圧が軽減したか」を測る方が社会的な自由度はよりわかりやすく、また抑圧の軽減にもつながるのではないだろうか。「自由」というよりも「尊重」という言葉を使った方がいいのかもしれない。「表現の尊重展」であれば、表現を尊重する者と抑圧する者の対比がいっそうはっきり見えたのかもしれない。

 いずれにせよ、我々は実に「抑圧的で表現を尊重しない国に住んでいる」ということがよくわかった。