とんま天狗は雲の上

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Newton別冊『死とは何か』

 ベストセラーになっている「『死』とは何か」とは別の本。ニュートンが別冊で「死とは何か」について特集した。内容はニュートンらしく、ほぼ全編、医学的・生物学的観点から老化や死に関する知見を紹介したもの。だが、心停止、植物状態、閉じこめ症候群、脳死、さらには各臓器や細胞レベルの死などを見ていくと、「死は社会的に……規定され」るという養老孟司の言葉が納得できる。

 ほぼ全編を占める科学的知見も面白いが、本書でもっとも出色なのはエピローグ。中でも養老孟司のインタビューだ。「私たちは何をもって、人が『生きている』『死んでいる』と判断しているのでしょうか」と訊かれ、「それは、医師が書く死亡診断書です」と答える。そう、科学的に生と死の境を確定することはできないのだ。

 さらに養老孟司は、「自分の死について……深く考える必要はありません」とも言う。なぜなら、自分の死を自分では観察できないから。自分が死んだ後に、その死を振り返ることもできないし、死につつある自分を他者に伝えることもできない。であれば、自分の「死」について悩むより、自分の「生」について考えるべきということか。「情報化」により死生観が変化しているという指摘も一理あるように思う。もう少し掘り下げてその意味を聞いてみたい。これまで養老孟司の本は一冊も読んだことがなかったが、死生観に関する本はあっただろうか。あったとすれば読んでみたい。

 「死とは何か」と言っても、結局、自分自身がいかに考えるかに尽きる。こうして科学的知見を確認した上で、その先は自分で考えるべきものだろう。「『死』とは何か」はたぶん読まない。学生などの若い世代ならまだしも、この年になって教えてもらうものではないように思う。様々な考え方、受入れ方がある。その上で、自分でどう考えるかは自分自身にかかっている。

 

 

○ドレイアー博士は……「終末拡延性脱分極は、死につながる最終的な変化の開始である可能性がある」とのべている。つまり、命の“ほんとうの終わり”のシグナルなのかもしれない。/生死を分ける最後の一線は、定かではない。「現状では、生きている人間の都合で、死を決めているだけなのです」と片山博士は話す。「ここから先は死だ、という境界線を引くことは、まだむずかしいのではないでしょうか」(P83)

○長く生きた個体の遺伝子は、傷が多い傾向があります。こうした個体の生殖細胞を使って子孫をつくると、傷がさらにたまっていきます。すると、その生物種が、最終的には絶滅してしまう可能性が高くなると考えられます。これをいちばん安全に回避する方法は、ある程度時間が経ったところで、古い個体が必ず死ねるようにプログラミングしておくことなのです(P126)

○一人称の死とは……自分が死ぬことです。しかし、これについては考えること自体が無意味です。……自分で自分の死を観察できないからです。……死とは「自分を観察できなくなること」だとすれば、毎晩私たちは睡眠という死を経験しています。ほとんどの人は睡眠をおそれていないし、睡眠について深く考えません。……自分の死について、理解はおろか観察できないのであれば、深く考える必要はありません。(P138)

○かつては、平家物語方丈記に書かれたように、人間は変化しつづけるものという意識がありました。ところが現代では、人間、さらに自分の意識は変化しないものと考えるようになっています。これが「情報化」です。……「人間は変化しないものである」と考える情報化社会は、死という変化に対する人の認識を弱め、死から受ける影響を少なくしているのかもしれません。だからこそ、死は科学的な現象というよりも社会的な現象なのです。(P144)