とんま天狗は雲の上

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資本主義に出口はあるか☆

 タイトルだけ見ると、経済学の本かと思う。しかし荒谷大輔は哲学者。哲学的観点から「この社会」を見つめ直し、「新たな社会」への展望を示す。その意味では「資本主義に出口はあるか」というタイトルは偽りではないが、「新たな社会」の展望はまだ具体性に欠ける。「出口」の光は見える。だが、その先は見えない。それは私たちが「この社会」、ロックとルソーの理念が同居し、対立する社会にいるから。本書のほとんどは「この社会」はロックとルソーの理念の対立の産物だということを説明することに割かれている。

 だが、「新しい社会」の「出口」は、ロックとルソーのそのまた根源、デカルトの定義、「我思う、故に我あり」にまで遡らねばならない。「疑っていることは疑えない『私』」は本当に存在するのか。「そうでもないのではないか」ということはその後の構造主義ラカンなどの哲学で論じられているところでもある。だから、資本主義(民主主義といった方がいいようにも思うが、同じこと)の出口は「『私』という思考の枠組」から外れて考えてみることで見えてくる。それを筆者は「ゼロ地点」というのだが、しかしそこでもなお、「自由」と「平等」は重要だと言う。しかしその時の「自由」と「平等」は、ロック的でもルソー的でもないものだろう。では何か。

 「私」を外した上での「自由」と「平等」。それがどういうものかまでは本書ではまだ書かれていない。「この社会」が「ゼロ地点」にどうやって辿り着くことができるのかも明確ではない。しかしそうした認識の大転換を経なければ、現在の資本主義の矛盾から脱却できないということは何となくわかる。ロックとルソーの思想に帰ることで、現代社会の矛盾の理由が見えてくる。

 

資本主義に出口はあるか (講談社現代新書)

資本主義に出口はあるか (講談社現代新書)

 

 

○ロックとルソーは、それぞれに王政に代わる近代的な社会のシステムを構想した思想家ですが、それぞれが描く「近代社会」は、単に異なるというだけでなく、激しく対立するものでした。その対立は、実際のところ、まったく両立不可能なレベルにまで達しています。二人はつまり、まったく異なる「社会」を構想したのです。しかし、われわれが生きているいまの社会は、ある特殊な歴史的な経緯を辿って、この両立不可能なものの共存というかたちで実現しています。(P25)

アダム・スミスによれば……人間というのは時々の流行に騙されながら、その都度その都度、自分がよかれと思うことをするので精一杯だというわけです。……むしろ、人がそうやって騙されることで、社会は実際に発展するし「道徳」も一応は成立する。……人々はまさに「自由」であることで……それは必ずしも各人にとっていい結果をもたらすものではないものの、社会全体で見ると「神の見えざる手」が働いているかのように、道徳的規範と経済的発展を実現するとスミスはいっていたのでした。(P70)

○ロック的な近代社会を乗り越えようとするルソー的な試みは、こうして様々なかたちで挫折します。ロマン主義教養主義スピリチュアリズムマルクス主義ファシズム等々、それらが近代の歴史において果たした役割と可能性、そして悲劇の度合いは様々でした。しかし、そこには常に、ロック的な社会に対するルソー的な反発がありました。(P164)

○「戦後民主主義」の枠組の中では、対立するロックとルソーの理念は幸せな同居関係を実現できました。リベラルの描く理想は、資本主義の枠組の中で経済的基盤を獲得し、資本主義社会はまさにそのリベラルの理念によって労働者を経済に統合し、実際的な利益を得ることができました。それは高度経済成長が二つの理念の矛盾に目を瞑らせる限りでのことだったのです。/労働者を経済に統合する経済成長が限界を迎えると……自由至上主義が復活し、……労働者の権利を労働者自ら手放そうとする雰囲気が「一般性」を獲得するに至りました。その中でわれわれは、市場原理に準拠したイメージ操作のゲームに参加することによってのみ「公共的」でありうる社会に生きているのです。(P198)

○重要なのはむしろ、いつでも新しく作り直すための「自由」と「平等」を確保することです。「ともに「ゼロ地点」に立ち戻り、その中から新しい思考の枠組みを生み出すこと」を来るべき社会の憲法とすることで、いつでも各人が納得のいく思考の枠組みを作り直せる仕組みが得られます。(P270)