とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「誰でもない者」。そういう存在の生物が世界には十数人はいる、という設定。だから「某」。主人公は最初、丹羽ハルカとして現れた。女子高生として。次いで、同じ高校の男子生徒である野田春眠になった。そして同じ学校の事務員である山中文夫になる。さらに23歳のマリとなった。そこまでは、蔵医師と水沢看護士が「某」の変化をサポートしていたが、マリとなって病院を飛び出した。そして佐伯ナオと出会い、同棲をする。その時に、「誰でもない者」は「某」だけではないことを知る。しかしナオは16年連れ添った末に、突然病気で死んでしまった。

 年を取らない「誰でもない者」は、カナダに渡ってラモーナになる。ここまでは、川上弘美は「誰でもない者」という設定で、多くの人の物語を書きたいのかなと思っていた。しかしある日、ラモーナは津田という男と会う。そこから話は大きく展開する。津田も「誰でもない者」だと言う。そしてアルファとシグマの二人の「誰でもない者」を紹介してくれる。

 ラモーナとなってカナダへ渡り、人の悲しみと「共感する」ことを知るラモーナ。アルファとシグマは男女と年齢を入れ替えて駆け落ちをしてしまった。片山冬樹となった「某」は二人を訪ねるが、子どもを欲しがるシグマには子どもはできず、分裂して弱っていく。そして片方のシグマを殺すことで再生する。「誰かのために何かをするのって、なんだか、とっても気持ち悪いことだね。殺しをおこなうことよりも、気持ち悪いかもしれない」(P171)

 彼ら「誰でもない者」は、人間とは何を感じ、人間であるとはどういうことかを探りながら生きているのだった。そして時代は過ぎ去り、「誰でもない者」の一人、津田はYRの中で生きるようになる。シグマとアルファは愛し合い、慈しみながら暮らす。ひかりとなった「某」は高橋と鈴木の間に生まれたみのりと共に時間を過ごすうちに、変化できないようになっていく。変化せず、成長する。成長する人間。人間とは何か。

 結局、「某」はそれを問う小説だったのか。いや単に、「誰でもない者」という発想からそこへ導かれていってしまっただけなのか。たぶん後者なのではないか。でもこうした荒唐無稽な設定から、思わぬところへ着地する感じは、いかにも川上弘美らしくて面白い。

 

某

 

 

○セックスすることによって、妻の何かをまだ自分が望んでいるって、自分に対しても、妻に対しても、確かめるっていうか、証明するっていうか、そんな感じで。記念日を祝う、というのと、少し似ているかもしれないね。…だんだん年をくうと、互いの健康に対する承認にもなる。そう考えると、セックスっていうものはけっこう汎用性の高いものだね」(P85)

○自分自身の奥底をさらしたり消費したりすることが、時によってたいへんに疲れをよぶ、ということを、私はラモーナになってから、知るようになっている。人のかなしみによって肋骨のあたりが痛む、というのは、他人の奥底をさらされていることによる痛みにちがいない。さらすことも、さらされることも、痛いことなのだ。それなのに、多くの人間たちは、自分をさらすことを厭わない。人間とは、なんと強い存在なのだろう。(P225)

○誰かのために何かをするのって、なんだか、とっても気持ち悪いことだね。…それから、伝記の中の人間たちのことを、思い返す。人間たちは、いつも誰かのために何かをしていた。…自分のためだけに事をなしとげようとしていた人間は、ひどく少なかった。犯罪者でさえ、自分のためだけになど生きていないように感じられた。/片山冬樹は、それら、誰かのために生きようとする人間たちのことが、理解できなかった。(P271)

○「人間って、自己愛が強いのね…だって、自己愛が強くなきゃ、生まれてきたことや、成長していることを喜ぶ、なんていう発想は、出てこないでしょ」…そうなのだ。人間は、この世界に自分が生きているというそのことを、ひどく貴重だと感じる生きものなのだ。なんとおめでたい生きものなのだろう。違う言いかたをするなら、なんと前向きな生きものなのだろう。(P295)

○「どうしてあたしたちが変化しなくなったかについての、あたしたちの考え、聞きたい?」…「犠牲を払ってしまったから、だと思う」…ひかりは…自分のためじゃなく、みのりのために、生きていた。…あたしたちも、相手のためにそうしたいから。相手のことを、愛するようになっていったから」…「愛してるって、どういうことなの?」「言葉であらわすと、嘘っぽいけど、相手のために生きたい、っていうことかな」(P363)