とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「違いを認める」よりも「同じを目指す」

 大晦日カルロス・ゴーンが日本を出国し、レバノンにいるというニュースが駆け巡ったかと思えば、新年早々にはアメリカがイラン司令官を殺害したという報道が入ってきた。世界の分断はいよいよ激しくなる一方のようだ。「変化への対応」で、山口真由がポリティカル・コレクトネスに一例としてLGBTQQIAAPPO2Sを紹介していたことを書いたが、山口氏も極端なポリティカル・コレクトネスに対しては疑問を呈していたことも書いておきたい。一昨年の大晦日浜田雅功エディ・マーフィーに扮して顔を黒く塗ったことが議論となったが、結局、日本での反応は「ブラックフェイスってそんなにいけないことだったのか」という知識ネタに過ぎなかったし、LGBTQQIAAPPO2Sについても、「LGBTでは足らず、今はLGBTQQIAAPPO2Sって言うんだ」というネタでしかない。そうした反応は私も同感だし、やり過ぎ感がするのも事実。

 fujiponさんが「【読書感想】ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー:琥珀色の戯言」の中で、「人間は人をいじめるのが好きなんじゃないと思う。……罰するのが好きなんだ」という文章を紹介しているが(ブレイディみかこ氏の原作を読んでいないので、fujiponさんのブログから引用)、ブラックフェイスもLGBTQQIAAPPO2Sも、同じ態度のような気がする。みんな正しいことを言っているようで、実は「糺したい」と思っているだけなのだ。

 それでも、LGBTQQIAAPPO2Sと書き連ねることには「性の多様性を認めよう」という主張が入っているということは理解する。「多様性を認める」ためには「多様な内容」を明示して、その上でそれらを認めるというやり方。でも列記していったら、いつまでも終わらなくなってしまう。行き着く先は「みんな一人ひとり違うよね」という当たり前のこと。そこから先を示さなければ、却って差別を助長するだけになりかねない。

 一人ひとり違うことを認め合い、尊重し合い、でも同じところはないかと探し合う。そうした時、初めて、違いを乗り越えられる。その時、初めて、同じものを目指す仲間となれる。「違いを探す」→「違いを認め合う」→「同じを探す」→「同じを目指す」=「仲間になる」ということ。

 人間誰でも「違い」もあれば「同じ」もある。「違い」を糾弾することは差別だが、「同じ」を強要することもいけない。日本人は「違い」に鈍感で「同じ」を無意識に強要する傾向があるのかもしれない。とすると、「違い」に敏感であれば「同じ」にも鋭敏になれるんだろうか。日本におけるポリティカル・コレクトネスはまだその域にまで達していないように思われる。欧米人のポリティカル・コレクトネスがどうなのかは知る由もないが。