とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

生きづらさについて考える

 昨年8月に発行された内田樹のコラム集。「サンデー毎日」を始めとする様々なメディアやブログに書いてきたコラムを40編近く収録している。多くは安倍政権批判。そして教育行政等に対する批判。だが、それは単に現政権や政策の間違いを指摘するのではなく、なぜこんな政権を私たちは持つに至ったのかということを、戦後から現在に至る日本の成り立ちとともに論ずる。それらはいつもの内田節ではあるが、年に数回、こうして内田樹のコラムをまとめて読むと、色々なことがストンと落ちるし、見えてくるものがある。

 我々はあるべくして今のようにある。しかし、それは「落ち目」であり、確実に「絶望」へと向かっている。いかにすればそこから脱することができるのか。最後のコラム「街場の2019年論」ではいくつかの希望的予言をしているが、ほとんどは当たっていない。それは悲しむべきことだろう。それでも、2019年には「れいわ新選組」の登場など少しは変化の兆しが見えてきた。「こういう場合の心構えは・・・冷静さを保つことである」(P282)という。

 そろそろ大きな変化がありそうな予感がする。内田氏は2020年、どう予言しただろうか。我々ができることは限られている。でもそれらを目一杯動員して、変化に的確に対応していくことが求められる。そんな年になるのではないか。

 

生きづらさについて考える

生きづらさについて考える

 

 

○戦後70年、私たちは同じ劇の何度目かの「再演」の時を迎えている。安倍政権が進めようとしている「次の戦争」の開戦の時である。これは日本人のほぼ全員にとっては…個人の経験としてははじめて出会うものである。私の個人的記憶が教えるのは、そういう「地獄の釜の蓋が開く」時にも、多くの人はそれに気づかずになげやりな日常を送っているということである。そして、蓋が閉じた後にも、自分が何を経験したのか覚えてさえいない。(P14)

若い人たちは「株式会社のような制度」しか経験したことがない。…家庭も、学校も…就職先も、全部「そういう組織」だったのだから、彼らがそれを「自然」で「合理的」なシステムだと信じたとしても誰も攻めることはできない。/「民主的組織」などというものを今時の若い人は生まれてから一度も見たことがない。…彼らが「そんな空想を信じるなんて、あんたの頭はどこまで『お花畑』なんだ」と冷笑するのは当然なのである。(P82)

○人間は精神の安定を得るためには、ある種の集団に深く帰属しているという政治的「幻想」をつねに必要としているからです。…いま、世界中でナショナリズムレイシズムが亢進しているのは、人々が「ある種の共同体に深く帰属している」という実感を持ちにくくなったせいです。家族も地域共同体も…すべてが解体のプロセスになります。その中で原子化・砂粒化した個人が、「国家」や「人種」という幻想に必死にしがみついている。(P91)

○気がつけば、いつの間にか「対米自立という目的を失った、ただの対米従属」技術に熟達した人々が…巨大な指導層の一角を占めていたのである。…日本が「落ち目」になったのは個人の努力と国力の向上を結び付ける回路が失われてしまったからである。…日本が…なぜそうなってしまったのか、そこからの回復の方位はありうるのかについての自由闊達な議論が始まらない限り、この転落に歯止めはない。(P242)

○戦争を始めたのも、戦争に負けたのも、僕たちじゃないのに、敗戦国民としての道義的責任と政治的責任だけは「時効なし」で僕たちに負わされる。/この敗戦国民であることのもたらすフラストレーション…は恐るべき毒性を持っていた。…その虚無感が…敗戦国民の「暗さ」を作り出している。そのせいで敗戦国民は根拠のはっきりした自己肯定感をもつことができない。自分の国に対して…敬意や、控えめな誇りをもつことができない。(P293)