とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

生き心地の良い町

 2013年の発行だから、ずいぶん前の本である。当時はそれなりに話題になったようだ。私がどこでこの本を知ったのか忘れたが、いい本に巡り合った。徳島県に日本でも有数の自殺希少地域があるという。合併してしまったが、旧海部町地域がそれである。合併後の隣接地区と比べても明らかに差がある。その地に数年暮らし、学術調査を進めた結果をまとめたものであり、最後には「調査と分析の流れ」として、4つの研究とその内容が簡潔かつ学術的にまとめられている。

 しかし本書の楽しいところは、本文がまさに調査をしつつ感じた驚きやエピソードが現地の住民の言葉そのままに収録され、紹介されているところである。「あんた、うつになっとんのと違うん」と気軽に隣人に声掛けする女性。「だれに投票するかは、個人の自由や。人に強制やしたら、いまの言葉で言うたらなんじぇ、ダサイ、ちゅうんか。野暮なことやと言われる」と地縁組織を通じた投票依頼について強い口調で答えた老人。「病、市に出せと、昔から言うてな。やせ我慢はええことがひとつもない」と個人の悩みやトラブルは隠さずさらけ出すことを勧める教えが生活や意識の中に身に付いている。一方で、新参者には興味津々なことを隠さず、ずけずけと聞き、観察する。しかし一旦評価が定まれば、あとはあっさりとして干渉しない。「関心は持つが、監視はしない」とはいい言葉だ。

 こうして抽出された自殺予防因子は5つ。(1)いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい、(2)人物本位主義をつらぬく、(3)どうせ自分なんて、と考えない、(4)「病」は市に出せ、(5)ゆるやかにつながる。

 後半では地形との関係を研究した結果も書かれている。自殺希少地域の多くは「傾斜の弱い平坦な土地で、コミュニティが密集しており、気候の温暖な海沿いの地域」にあるという。もっとも地形が直接、自殺因子となるわけではなく、地形の特徴が医療機関との近接性や地域コミュニティ、住民気質等に影響した結果ではないかと分析している。

 最終の第5章は、この調査結果を自殺予防対策にどう生かすかという視点で書かれている。そこで述べるのは、けっして海部町の人々が立派だったのではなく、そう行動することが結果的に「お得」だったからではないかということ。文化や気質というのも結局はその方が「得」だから多くの人々がそう考え、行動するようになる。この視点は重要だ。さらに、海部町の人たちは地域の益にならない行動を「野暮」だと言う。そう言うことで、感情を荒立てず、やんわりとたしなめる。まさに人間の性と業をわきまえている。海部町の人々は実にスマートなのである。

 ちなみに、本書の冒頭で、自殺危険因子の研究は多く重ねられてきたが、自殺予防因子の研究は例がないと多くの人に反対されたことが書かれている。そして最終章では、失業・倒産、受験失敗、失恋・離婚、そして家族の死など、自殺危険因子はどうしてもゼロにすることはできないが、自殺予防因子であれば、それを知ることで自殺の危険を少しでも緩和することができると、本研究の意義を自ら確認する。こうした流れも見事だ。

生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある

生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある

  • 作者:岡 檀
  • 発売日: 2013/07/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

○彼は、特別支援学級の設置に反対する理由として、このようなことを言った。/他の生徒たちとの間に多少の違いがあるからといって、その子を押し出して別枠の中に囲いこむ行為に賛成できないだけだ。世の中は多様な個性をもつ人たちでできている。ひとつのクラスの中に、いろんな個性があったほうがよいではないか。(P46)

○江戸時代の初期、海部町は材木の集積地として飛躍的に隆盛した。…短期間に大勢の働き手が必要となった海部町には、一獲千金を狙っての労働者や職人、商人などが流れこみ、やがて居を定めていく。…海部町は多くの移住者によって発展してきた、いわば地縁血縁の薄いコミュニティだったのである。…その人の問題解決能力や人柄など、本質を見極め評価してつきあうという態度を身につけたのも、この町の成り立ちが大いに関係していると思われる。(P87)

○「町のもんはあんたに“関心”があるだけなんや。あんたを“監視”しとるんやないんや」…自殺多発地域の住民たちに比べ、海部町の住民たちははるかにあっさりとした、ゆるい結びつきを維持している様子がうかがえた。…興味津々の隣人に囲まれたときにはわずらわしい気分にはなっても、閉塞感に苛まれるまでにはいたらないのではないかと思われる。(P108)

○自殺危険因子の多くは日常生活に潜み、人が生きていく上で誰しも遭遇しうる事柄だ。しかもそれらは、いかなる手を尽くしたとしても、この世から完全に除去することができない。…「自殺予防因子」を探し求める意義は、ここにある。…他の地域と同様に自殺危険因子がありながらも、海部町のコミュニティに予防因子が定着し機能していることで、その危険の度合いが緩和されていると考えられるのである。(P187)

○利己主義は人間の業ではあるが、…現時点で多少の損失を出しても、のちに利益として戻ってくると信じることができれば…我慢して待つことができる。…「情けは人のためならず、めぐりめぐりて己が身のため」という格言そのものの理念…を共有し根付かせることによって、自身たちの共存に成功したのではないだろうか。…人間の業である損得勘定を基にしていたことからこそ、長年にわたり破綻することなく継承されてきたと考えることができるのである。(P190)