とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

カササギ殺人事件☆

 久しぶりに面白い推理小説を読んだ。2018年秋の出版だが、その後、日本のミステリ関係の賞を総なめにしている。これにはちょっと興味が引かれ、図書館で予約した。コロナ禍もあって順番が回ってくるまで時間がかかったが、ようやく読み終えた。普段ほとんどミステリを読んでいない私が書くのもなんだが、確かに今世紀最大と言っても過言ではない、最高級のミステリだ。

 「アガサ・クリスティへのオマージュ作品」という推薦文には、アガサ作品は有名どころを除いてはそれほど読んでいない私にはややレベルが高すぎるのでは、と心配したが、何のことはない、作品中で「『カササギ殺人事件』は、アガサ・クリスティへのオマージュ作品だ」として、該当する部分が紹介されている。それと言うのもなんと、『カササギ殺人事件』は、本作品の中で編集者が読み進める作品のタイトルでもあるのだ。上巻冒頭に、編集者が担当作家の最新作を読み始めるという場面があり、その後、作中作品の『カササギ殺人事件』が始まっていく。

 そして上巻の最後、「自分の妻を殺したのだ」という探偵アティカス・ピュントの言葉で終わる。次はいよいよ謎解きが始まるかという期待の下、下巻を開くと、「この原稿の結末部分がない」。一気に、上巻最初の、編集者が最新原稿を読んでいる場面に呼び戻されるのだ。そして、作中作品における殺人事件に続いて、第二の殺人事件。『カササギ殺人事件』の作者であるアラン・コンウェイの殺人事件が始まる。しかも、この二つの作品の登場人物を巡る状況が微妙に似ている。下巻は、上巻の『カササギ殺人事件』の筋書きを思い起こしつつ、読み進めるという楽しみ。

 そして、第二の殺人事件、アラン・コンウェイ氏の死に至る原因として、ミステリに対するアラン氏の恨みにも似た思いが綴られる。この作品を書いているアンソニーホロヴィッツ自身もミステリ作家であり、アラン氏の思いと筆者アンソニーホロヴィッツの思いが交錯する。ミステリの存在意義とは何か。それを筆者は文中で綴っている。それもまた興味深い。

 何重にも重ねられたミステリと謎と作品。ここまで練りに練られた作品はそうそうないだろう。今世紀最大という賛辞はけっして大袈裟なものではない。ミステリ界最大、というのはさすがに言い過ぎだろうか。それほど面白かった。

 

 

○父は痴呆症なのだ。この先、回復する見込みはない。…自宅に父を引きとることも、いったんは考えてみた。しかし…老人の介護に24時間当たることなど不可能だった。バース峡谷には…老人介護施設…アシュトン・ハウスがある。初めてそこへ父を連れていったときの罪悪感、挫折感を、エミリアはいまでもはっきりと憶えていた。…父を納得させるより、自分自身を納得させるほうがはるかに難しかったものだ。(上P111)

○『カササギ殺人事件』にも、アガサ・クリスティへのひそかなイマージュが、少なくとも五、六ヵ所はちりばめられている。たとえば…『カササギ殺人事件』の筋立てに古い童歌が使われているのも、明らかにクリスティが何度となく使った技法をなぞったものだろう。…アラン・コンウェイは自分なりの奇妙な流儀で、わざとそれを目立たせようとしているかに思える。アランはいったいどんな意図があって、こんなにもわかりやすい道しるべを立てまくったのだろう?(下P135)

○わたしたちの周囲には、つねに曖昧さ、どちらとも断じきれない危うさがあふれている。真実をはっきりと見きわめようと努力するうち、人生の半分はすぎていってしまうのだ。ようやく腑に落ちたと思えるのは、おそらくはもう死の床についているときだろう。そんな満ち足りた喜びを、ほとんどすべてのミステリは読者に与えてくれるのだ。それこそが存在意義といってもいい。(下P259)

○ミステリ以外はどんな小説であれ、わたしたちは主人公のすぐ後ろを追いかけていく…。いっぽう、探偵とは、わたしたちは肩を並べて立っている。…わたしたちはただ、本当は何があったのかを知りたいだけであり、読者と探偵はどちらも、けっして金のために真実を求めているわけではない。…作品を読みつづけるのは、わたしたちがその探偵を信頼しているからだ。(下P260)

○アランは自分を、偉大な作家だと思っていました。…読者から偉大な芸術家として評価を受けられる作家だと。でも、実際に自分がしていることは、金のための作品を書くことでしかなかった。…そういった作品をアランは軽蔑していたんです。あなたに読ませた『滑降』-本来アランが望んでいたのは、ああいう作品を書くことだったんですよ。…だからこそ、あれが…駄作だということが理解できなかった。(下P303)