とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

プラヴィエクとそのほかの時代☆

 オルガ・トカルチュクの邦訳3作目、「プラヴィエクとそのほかの時代」を読んだ。邦訳は3作目だが、ポーランドでの執筆と発行は最も早く、1996年に出版されている。そして3作の中では最も読みやすい。

 プラヴィエクというポーランド西部の架空の土地を舞台に、1914年の第一次世界大戦から始まり、第二次世界大戦によるドイツの侵攻とソ連による社会主義国家体制、そして最後は連帯の民主化運動による解放に至るまでの、ミシャを中心とした家族の物語が描かれる。もっとも、ミシャの家族、そしてプラヴィエクの人々にとって、そんな歴史に大した意味はない。長い人生の中に起こる多くの変化の一つに過ぎない。戦争も、スターリンの死も、民主化も、恋愛や不倫や嫉妬や、強姦や死別や病や老齢化と並んで、人生にとってみれば同じこと。

 そして、人も、動物も植物も、さらには神も、プラヴィエクの村では同時並列的に記され、それぞれの価値観を生きている。だから「物」でありつづけることが最も重要なことなのだ。そして、他の世界中のどこでもそうであるように、プラヴィエクには物が生まれる場所があり、物が消えていく場所がある。すべてはそこで生まれ、そこで消えていく。そして生きているということは、夢みたいなものかもしれない。

 領主のポピェルスキがラビから受け取ったゲームでは、神が作った8つの世界が描かれる。ポピェルスキはその神の世界(ゲーム)の中に囚われるが、しかし最後はブーツ工場主として成功するのだ。世界は、神さえも飲み込んで、人とともに過ぎていく。

 徹底的に人に寄り添うオルガ・トカルチュクの世界。まだ日本ではこれまで読んだ3作しか翻訳刊行されていないことが寂しい。早く次の作品を読んでみたい。そう熱望する日本人は少ないのだろうか。

 

 

○子どもも大人も、一過性の状態だ。ミシャは注意ぶかく観察していた。じぶん自身がどんなふうに変わるのか、彼女のまわりのほかの人びとが、どんなふうに変わるのか。でも、なににむかって変わるのか、その変化の目的がなにかは、わからなかった。…父親が帰ってきて以来、ミシャは世界を見ることを始めた。…父が帰る前のじぶんのことを、ミシャはちっとも思い出せない。…世界を父が永遠に変えてしまったのだった。(P57)

○人はじぶんが動物よりも植物よりも、とりわけ、物よりも濃密な生を生きていると思っている。動物は、植物や物よりも濃密な生を生きていると感じている。植物は、物よりも濃密な生を生きていることを夢に見る。ところが、物は、ありつづける。そしてこの、ありつづけるということが、ほかのどんなことよりも、生きているということなのだ。…もしかしたらコーヒーミルは、現実の軸なのかもしれない。…世界にとっては人間よりも重要な軸。そしておそらくミシャのコーヒーミルとは、プラヴィエクと名づけられたものの、柱ということなのかもしれない。(P59)

○「ここでプラヴィエクは終わるのよ、ここから先はなにもないわ…。ひとは旅に出て、この境界に行きついて、そしてここで、ぜんぜん動かなくなるの。たぶん、夢を見ているのよ…それからしばらくすると、目を覚まして帰っていくの、自分の夢をお土産にして。これこそが、じっさいに起きていることなのよ」(P151)

○プラヴィエクには、世界のあらゆるところとおなじく、物質がひとりでに生じる場所、勝手に無から生じる場所がある。それらはいつも現実のただのちいさな塊で、全体にとってはまるで本質的ではないが、だからこそ、世界の均衡をおびやかさない。…そしてもちろん、プラヴィエクには、世界のあらゆるところとおなじく、現実が幕を閉じる場所、風船から抜ける空気みたいに、現実が世界から退場する場所がある。…それは地中ふかく、どこに向かうかわからないけれど、黄色い砂と、草の茂みと、畑の石に刺さっているのだ。(P293)