とんま天狗は雲の上

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「自助・共助・公助」の意味

 菅官房長官さんが自民党の総裁選に当たり、「自助・共助・公助」と発言したことで、一部から批判の声が上がっている。菅さんは「国の基本は、『自助・共助、公助』だ。自分でできることは自分でやり、地域や自治体で助け合い、政府が責任を持って対応する」と言ったそうなので、この発言を額面とおりに受け取れば、「単に『援助』を自己・共同・公共に区分しただけ」と捉えることもできる。

 それが「政治理念だ」と言われると、「区分が政治理念ですか?」とずっこけるが、好意的に解釈すれば「政府で対応すべきことは確実に実施していく」とも取れるし、悪く解釈すれば「自助・共助で対応すべきと政府が判断したことには手出しはしない」とも受け取れる。まあ、「本音は後者」だと取るのが、正解なのだろうとは思うけど。

 でも改めてこの言葉を吟味してみると、色々と疑問に思うことが生まれてくる。まず「自助」だが、「助ける」というのは、「誰かが誰かに対して手を差し伸べること」を言うので、本来、「自分で自分を助ける」というのはおかしい。何か困り事があった時には、子供でもない限り、まずは自分で何とかしようとするものだ。それを敢えて「自助」というのは、他者(地域も行政も)も手を差し伸べる余裕がない時に、「『自分では何ともならない』と思っているかもしれないけど、アドバイスはするから自分で何とかして」という意味だ。

 もしくは、災害時の「救助」や福祉等の「支援」にあたり、「共助」「公助」を前提に、「自分でやっていいこと」「自分でやってもらいたいこと」を明らかにするために「自助」という区分を設けたのかもしれない。その場合、「やってはいけない自助」もあり得る。例えば、災害時に「自動車で避難する」というような行為は、明らかに「自助」だが、「してはいけない自助」だ。なるほど。「自助」とは「自ら行うべきこと」「行ってほしいこと」であって、「自分でやるなら何をしてもいい」という意味ではない。菅さんは「自助にも制約がある」ということをどれだけ意識して発言しただろうか。

 それから、「公助」の「『公』が何を指すのか」という点も解釈が難しい。冒頭に引用した菅さんの発言では、「自治体」の支援を「共助」の中に入れているように聞こえるが、自治体も政府の一つではあるので、国家と同様、「公」と捉えるのが一般的ではないか。もっとも、福祉の分野では、「介護保険に代表される社会保険制度及びサービス」を「共助」と位置付けている。これは、生活保護などの行政活動と保険制度を区分けするために整理したもので、本来の「共助」は「互助」という言葉に置き換えられている。菅さんの頭の中では、自治体は政府ではなく、保険組合のようなものと捉えているのだろうか。

 ちなみに、福祉に限らず、「公助」のほとんどは自治体が実施しているはず。自治体を「共助」にしてしまうと、国が自ら実施する「公助」はいったい何が残るのか。一般的には、「公助」の「公」には、国や地方政府(自治体)、保険制度や消防などの事務組合など、法律などで制度的に位置付けられた組織はすべて含まれると考えるべきだ。

 なお、コロナ対策として先々月から、国自ら「Go To キャンペーン」を実施しているが、これは実に経産省的な考え方と言える。経済・産業分野については、国全体と各地方で利益相反することがままあることから、国は国として、地方は地方自治体として、それぞれ行政活動が実施されている。そう考えると、菅さんの「自助・共助・公助」は、安倍官邸に巣食う経産官僚の息がかかった考えであり、言葉だったのかもしれない。だとすれば、菅さん、そして安倍官邸の面々がいかに一般常識から離れたところで政策を考えているか、ということを思わざるを得ない。

 「自助・共助・公助」などという如何様にも捉えられる言葉を安易に使うことの怖さを、次期総理大臣になるはずの菅さんにはもっと噛み締めてもらいたい。「言葉は怖い」。まさに安倍首相はそれで、招かなくてもいい疑惑を招いたのではなかったか。