とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

猫を棄てる

 「父親について語るとき」という副題がついている。村上春樹が父について語った本として話題になっている。その父は、召集され、中国で人が人の首をはねるという場面を体験し、それを息子に語った。そして日本に帰り、その後の2度の招集も幸運に助けられて生き延び、そして村上春樹が生まれ、長寿を全うし、亡くなった。

 その父と息子は、20年以上全く顔を合わせず、絶縁状態になっていたと言う。だからこそ、こうして父の人生を振り返り、本書を書かせた。そしてそれは結局「ひとりの平凡な人間」と「ひとりの平凡な息子に過ぎない」と書く。いや、どれほど特筆すべき体験があり、人生だったとしても、結局は「膨大な数の雨粒の名もなき一滴に過ぎない」。しかしだからこそ、その一滴の人生を書くことに意味があり「責務がある」のだと言う。

 父親とともに猫を棄てに行く場面から話はスタートする。そしてそれは少し先になって、父が奈良のお寺に出され、戻ってきた経験に回収される。それは父にとっては忘れることのできない重い体験だったかもしれないが、結局、そのことが息子に語り継がれることはなかった。だからこそ、引き継ぎ、引き受けるべきことは、しっかりと受け継いでいくべき責務がある。それが「歴史」の意味であり、また平凡な個人であっても、全体の中ではかけがえのない存在として尊重されるべきものでもある。

 こうした村上春樹の姿勢や人生観は、彼の小説でも常に語られることであり、好感を持つところでもある。村上春樹はこれを書くことで一つの重荷を降ろしたという感じだろうか。小説家としての重荷。では、文筆家でもない我々はこの責務をどうやって果たしていけばいいのだろう。息子や娘に<語り継ぐ>ということでしかないのだろうか。

 

 

○親に「捨てられる」という一時的な体験がどのような心の傷を子供にもたらすものか、具体的に感情的に理解することはできない。…しかしその種の記憶はおそらく目に見えぬ傷跡となって…死ぬまでつきまとうのではないだろうか?…人には、おそらく誰にも多かれ少なかれ、忘れることのできない、そしてその実態を言葉ではうまく人に伝えることのできない重い体験があり、それを十全に語りきることのできないまま、そして死んでいくものなのだろう。(P32)

軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は…幼い僕の心に強烈に焼きつけられることになった。…言い換えれば、父の心に長くのしかかってきたものを…息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。…歴史というのもそういうものなのだ。その本質は<引き継ぎ>という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な…ことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?(P52)

○我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか。/言い換えれば我々は…膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。…しかしその一滴の雨水には…一滴なりの…歴史があり、それを受け継いでいくという…責務がある。…たとえそれが…個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろ…それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ(P96)

○歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいはまた無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ。そういう意味合いにおいて、ここに書かれているのは個人的な物語であると同時に、僕らが暮らす世界全体を作り上げている大きな物語の一部でもある。ごく微小な一部だが、それでもひとつのかけらであるという事実に間違いはない。(P99)