とんま天狗は雲の上

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『死海文書』物語

 キリスト教関連の本を読んでいると、しばしば「死海文書」について書かれることがある。そこには、聖書には含まれなかった聖典などがあり、正統的なキリスト教宗派に対して、批判的な見解の論拠とされることもある。そんなイメージを持っていたが、そもそも死海文書には何が含まれ、どうやって発見され、現在はどういう状況にあるのか、といったことはほとんど知らなかった。

 本書は、タイトルに「…物語」と付いているように、「書物の伝記」シリーズの一つとして書かれている。よって、どうやって発見されたのか、その内容はどんなものか、またどこまで解読され、公開されているのか、といったことが内容となっている。「死海文書」はその発見後、人々の欲望や意図などに翻弄され、かなりの長い間、内容が公開されることなく、また政治的状況もあって、その研究も一面的であったり、隠されたりしてきた。本書では、死海文書は当時のユダヤ教の過激な一宗派が集め隠した文書として紹介しているが、それですらいつ覆されるかわからないし、珍妙な学説が発表されてきた過去もあるらしい。

 そして、なんと日本においては2018年になってようやく、死海文書全文書の日本語訳の刊行が始まれられたところだと言う。まだまだ研究自体が緒についたばかりの、まさに考古学的な研究対象なのだった。知らなかった。でもそんな状況だということを知っただけでも意味があった。面白い。ちなみに、本書自体は聖書関係の知識がないとなかなか理解が難しい。私もザっとページを繰ったという感じで何とか読み終えた。

 

 

○クムラン…遺跡からは、住民が儀式的な浄めに大いに関わっており、従っておそらくは宗教的な共同体であったと推測できる…。しかしながら、遺跡だけでは、共同体をエッセネ派に、あるいは…特定の共同体に同定することは難しい。…クムランの住民は、この地域における他の人々とさまざまな種類の商業関係を結んでいたことが今では明らかになっている。…クムランはエリコの近くにあり、エルサレムからもあまり離れていなかった。(P92)

死海文書は、キリスト教の前兆である黙示的な運動の所産として理解されていたが、それが今や、最終的にはラビ・ユダヤ教へとつながるトーラーの意味をめぐる議論の記録として見られるようになってきたのである。/しかしながら、死海文書に関する二つの見解は、対極にあるものとして見られるべきではない。実際のところ、いずれもが一定の真実を持ち合わせている。(P168)

○良くも悪くも、死海文書は…劇的な方法でユダヤ教キリスト教も覆すことはなく、むしろ初期キリスト教のいくつかの考えが前例のないものではなかったことを示している。…死海文書は…偉大な文学ではない。現代神学を変えるような偉大な新しい宗教的な洞察も含んではいない。集成の中核は、宗派的な文書で成り立っている。(P218)

死海文書に反映されている宗派運動は、それが消滅し、後にユダヤ教伝統にはっきりとした影響を及ぼすことのない運動だったという点で周辺的なものであった。しかし、それは完全に孤立したものではなく、…さまざまな形で当時のユダヤ教に光を当てる。/死海文書は…古代ユダヤ教の文書である。…それらは…イエスが生き、最初期のキリスト教が形を取った文脈を照らし出している。(P220)