とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

自分のために生きるのではなく、人のために生きる。

 先日、「心底『死ぬわけにはいかない』と思う。」という記事を投稿したら、友人から「私はいつでも死ねると思っています。…子供たちは独立し、親の役割は果たしたし、世の中の面倒くさいことには辟易としていますから。…毎朝…会社行きたくないと思いながら、会社につくとなんとかなる、の繰り返しです。…」という内容のメールが届いた。そこで、以下のような返事をした。

 「(先日のブログの)最後には、『天命であれば、どんな死でも受け入れる』と書きましたが、それでも『死ぬのならその前にそれなりの準備をさせてほしい』という思いはあります。突然死ぬのは、さすがに家族を、中でも、娘を、かなり困らせることになりそう。なので、ある程度の準備をして、それから安心して死んでいきたいな、とは思っています。

 

>会社行きたくないと思いながら、会社につくとなんとかなる、の繰り返し

 というのは、よくわかります。

 『今日も死ぬことなく、生きてしまった。』の繰り返し。

 でも、みんな、そんなもんだよね。『生きたい』とも『死にたい』とも思わず、ただ『生きている』、『生きてしまった』。それが普通の人の人生ではないかな。

 

 自分の人生は、自分にとって特別なものだろうか。自分の顔が自分で見られないように、自分の人生も自分では見られないのかもしれません。自分の顔を鏡で見るのは、他人からどう見られるかを確認するためかもしれませんが、どう見られようが、自分は自分だし、整形でもしない限り、自分の顔は変えられない。

 同様に、自分の人生を振り返ってみても、過去は変えることはできないし、現在や未来も自分でどうなるものでもない。そう思えば、自分の人生について考えるということ自体が、大して意味のないことのようにも思います。

 

『鏡を見るのではなく、窓の外を見る。

 自分のことを考えるのではなく、自分以外の人のことを考える。

 自分のために生きるのではなく、人のために生きる。』

 そんな生き方が必要なのかもしれませんね。

 

 人の気持ちもわからず、勝手なことを言っている、と思うかもしれませんが、何かの役に立てば幸いです。今日も、明日も、たぶん『なんとかなっている』と思うよ。またのメールを待ってます。」

   送信した後、「なかなかいいこと書いたじゃん?!」って思ったので、こうしてブログに投稿することにした。それにしても、人生ってホント、何だろうね?