とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

三度目の恋

 伊勢物語が今、脚光を浴びているようだ。先日は「100分de名著」で取り上げられ、「小説伊勢物語」を執筆した高樹のぶ子が指南役として解説をしていた。そして本書もまた、伊勢物語がモチーフになっている。「あとがき」によれば、2017年に「伊勢物語をモチーフとした作品をつくってみませんか」というお誘いがあったそうだし、筆者は2016年に河出書房新社の日本文学全集で、伊勢物語の現代語訳を上梓したとのことなので、この流行には裏にフィクサーがいるようでもあり、その前に筆者自身がその火付け役だったのかもしれない。

 それにしても、なぜ今、伊勢物語なのか。その純粋なまでの性愛への希求というテーマが多くの女性の心を捉えた、ということかもしれないが、一方で、将来に先の見えない不安が人の目を過去に向かわせているという気もする。また女性だからこそ、将来への不安に敏感だと言えるかもしれない。

 男尊女卑ではない。だが、本書を読みつつ感じたのは、女性の方が一身で周りの環境・状況と向き合っているということ。男性は、本当の自分という核の周りに社会や環境が覆い、そうしたアマルガムなものとして身体ができあがっているのに対して、女性は生の自分が直接、外部と触れ合っている。そんな感じがする。それゆえ、性愛は直接、女性の心=体を動かし、全身全霊をもって男性を感じる。だからこそ、現在を生きる梨子は簡単に、吉原のおいらん春月と一体となり、紀有常の娘に仕える女房となり、さらには五条の姫にも、副社長の許嫁にもなることができるのではないか。

 タイトルの「三度目の恋」は、平安と江戸と現代の三代に渡る恋のことかと思ったら、ナーちゃんと高丘との恋を経験した後の余生としての「三度目の恋」をこれから始めるのだと言う。「三度目の恋」があるなら「四度目の恋」もあるのだろう。女性にとって「恋」とは、永遠に続く、存在価値そのものなのかもしれない。男女は同権である。ただし、そのフィールドは違う、ということが本書でも再三述べられている。それはそれでいいのではないかと私も思う。

 

三度目の恋

三度目の恋

 

 

○「だって、きみが語った今の話は、きみの物語なんでしょう…ほんとうの世界は、ただの断片からなっているだけで、見渡すことなどなかなかできないはずなのに、ぼくたちはみんな、その断片をつなぎあわせて、自分のためのお話をいつも作りあげているんじゃないかな」(P71)

○現代における結婚とは、いったいどのようなものなのでしょう。…それはもちろん、自由で開放的なことです。…けれど、そこにはある種の困難が存在することも事実です。/自由だからこそ、自身で裁量しなければならないことが無数にあるからです。…自由は、たしかに、いいものです。/けれど、自由は、煩雑なものでもあります。その煩雑さに耐える力のある者しか、自由を行使できない、ともいえるでしょう。(P205)

○平安の女たちは、現代のこの国の女たちよりも、むしろのびのびと働いていたのです。…けれど、それは決して、平安の世が女性にとって開放的な時代だった、ということではありません。にもかかわらず女たちがのびやかだったのは、女と男の働く場所がはっきりとわかれていたからです。…宮中や屋敷のひめられた場所では、女房をはじめいくたりもの女たちがその能を発揮できる場があったのです。(P273)

○高丘さんのことを、わたしは好きです。その「好き」が減ることはありません。なぜなら、高丘さんとわたしとは、心が通じあってはいるけれど、互いの全体を知ってはいないからです。…高丘さんにくらべ、わたしとナーちゃんの距離はとても近いのです。だから、隠していても、互いの混沌は、いつの間にか相手にけどられてしまいます。…そんなわたしとナーちゃんなのに、夫婦としてなりたっている、ということに、わたしは時おり驚いてしまいます。そして、驚いたあとには、ナーちゃんのことがいとおしくなってしまうのです。/持てあましているのに、好き。/それが、わたしのナーちゃんへの気持ちなのかもしれません。(P317)

○余生だからこそできる、くさぐさのことが、わたしにはあるのです。/わたしにできること。/それは、これから愛する誰かをみつけることです。…かつてナーちゃんをいっしんに愛し、またかつて高丘さんを愛しんだわたしの三度目の恋は、これから静かに始まろうとしているのです。(P385)