とんま天狗は雲の上

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「お別れの会」の主旨は、参列者に感謝を伝えること。

 先週17日に、大垣共立銀行の土屋峻会長の「お別れの会」が開かれた。私も会社の関係で付き合いがあることから参列したが、今週になって、なじみの支店長が参列御礼のあいさつにみえた。「こんな言い方がいいのかどうか、わかりませんが、いい『お別れの会』でした」と話をした。

 故人は先月に亡くなられ、葬儀は近親者等で執り行われた。コロナ禍でもあり、「お別れの会」はどういう形式で開催するのかと不謹慎ながらも興味を持っていたが、参列者が決められたルートを辿りつつ、故人の業績を紹介するパネルや愛用の机・文具などの展示、故人が作詞した歌や個人を偲ぶ映像などを視聴する形。最後に、土屋会長の大きな写真が飾られた祭壇に向けて献花を行い、出口に立たれた遺族と頭取にあいさつをして、会場を出る。私が知らなかった土屋会長の人柄や業績、日頃の行状などが偲ばれ、けっして暗くなることなく、しかし参列した甲斐があったと思わせる、実にいい感じの「お別れの会」だった。

 「お別れの会」に参列したのはこれで2回目。6年ほど前に一度、仕事などでお世話になった大学の先生の「お別れの会」に参列したことがあった。この時は参列者一堂、大きなホールに入り、友人等の弔辞や親族の言葉などがあったが、それだけではなく、趣味の合唱グループと共に全員で童謡を歌ったり、息子さんが録音した生前最後の言葉が流されたりと、やはり趣向を凝らした内容となっていた。

 一般に、葬儀とともに開かれる告別式では、参列者は故人とのお別れを惜しむとともに、遺族へ哀悼の意を表することが主目的となっている。特に仕事関係の告別式で、日頃お付き合いがある方の両親が亡くなられた場合など、故人には初めてお会いすることが多い。そこで、告別式に参列しても、遺族である知人を慰め、労わることが中心となる。本人が亡くなった場合でも、遺族である妻や子供に対して気を遣うことが多い。

 だが、先日の「お別れの会」では、もちろん出口に立たれた遺族等へ慰めの言葉はかけたが、それよりも逆に、遺族や会社の側から参列者に生前の感謝の意を伝え、参列者もそれぞれ故人と個別にお別れをする会となっていた。ただ悲しむのではなく、故人の知らなかった面も含めて、故人のことを思い、別れを告げる。そして健康な自分を顧みて、故人から元気をもらい、明日への糧とする。別れが終わりではなく、残された者として背中を押してもらう。そんな前向きな思いを持つことができた有意義な会だった。

 最近は、個人の葬儀でも、告別式は後日行う例が増えているという。葬儀は宗教行事として近親者のみで行い、告別式は遺族が故人と親しかった人々に感謝を伝える場として別途開催する。そうすることで、葬儀と告別式の意味も明確となり、告別式の参列者もそれぞれの心の中でその人なりの別れを告げることができる。だが、その場合、故人とは全く付き合いがなく、遺族に対して労わりや慰めをしたい人はどうしたらいいのだろうか。そういう人は葬儀に出席するのかな? いやたぶんそういう場合は葬儀や告別式に参列するのではなく、後日、遺族に個別に声をかけるなど、その人に応じた、意味のある労わりや慰めをすべきだろう。

 コロナ禍で社会の色々な慣習も変化しつつある。葬儀のあり方も変わっていくのかもしれない。単なる儀礼でない、意味のある葬儀や告別式になっていくといい。