とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

Iの悲劇

 昨年、図書館で予約して、ようやく順番が回ってきた。ところでどうして僕はこの本を予約したのだろう。どこかの書評で高評価だったのだろうか。読み始めてみたが、大して面白くもない。「Iの悲劇」の「I」とは、「Iターン」の「I」だと気付いたが、Iターン者の理不尽な言動を皮肉る内容なのか。一方で、誰もいなくなった集落に外から移住者を呼び込み復活させようというプロジェクト自体の理不尽さも語られる。その種の仕事をしてきた経験からしても、確かにプロジェクト自体がおかしいし、移住希望者の理不尽さもよくわかる。

 そして最終章で、そもそもなぜプロジェクト自体がおかしかったかがわかる。だが、そこでハタと考える。「ひとが経済的合理性に奉仕するべきなんじゃない。経済的合理性が、ひとに奉仕するべきだ」(P245)という言葉は正論だ。作品の最後で、移住者たちが仲良く楽しく暮らす姿を夢想する主人公が描かれる。一方で、「自治体のリソースは有限であり、その配分は命の選別そのものだ」という文章も間違ってはいない。無茶な市長の公約を、配下の役人たちが市長に面従腹背しつつ、いかにプロジェクトを失敗へ持っていくかということがこの作品の背景となっているが、まさにそれと同じようなことが今、国家単位で行われているのではないかと思わないでもない。政治家と官僚の騙し合い。

 結局、日本のどこかで実際に起きているかもしれないことを、面白おかしく作品にしてみた、というだけのことのような気もする。Iターン者も、役所の職員も、何か空しい。でも、面白いと笑っているだけでは済まない現実があることを、もっと真剣に考えた方がいいかもしれない。

 

Iの悲劇 (文春e-book)

Iの悲劇 (文春e-book)

 

 

○元の住人が誰一人住んでいなくても、この場所は蓑石と呼べるのだろうか? 土地の名前は、そこに住んでいる人間と結びついているべきではないか。…多くの移住者が蓑石を去ったが、それでもひとがいれば土地は活気を生じる。残る移住者が蓑石に根づいてくれれば…いずれ土地の名前を変えるように提案されるかもしれない。/そうなったら、また仕事が増えるだろう。(P150)

○ひとが経済的合理性に奉仕するべきなんじゃない。経済的合理性が、ひとに奉仕するべきだ。経済的合理性を一番に掲げるなら、奴隷制だってアパルトヘイトだって合理的だろう」/『兄貴は甘いよ。奴隷制が廃止されたら、奴隷制に似たシステムが作られるだけだ。経済的合理性からは逃げられない。…撤退戦だぞ、兄貴』/「だったら、お前がやってるのは消耗戦だ。進むも戦い、引くも戦い、この世に天国はないってことだな」(P245)

○行政は、そこに市民が一人でも住んでいるのなら総力を挙げて生活を支える。…行政はそのためにあるからだ。……けれど、集落が無人になるなら、これは夢のような出来事だよ。その地域への支出はほぼすべて停められるんだからね。蓑石の復活など、その奇跡を自ら投げ捨てる愚行にほかならない。…われわれはあらゆる方面から市長を説得しようとした」…行政において市長が脳で、われわれは手足だ。われわれ役人が意志を持つことは認められていない。それが健全な法治というものだ。だけどね、手足だって、火に突っ込まれたら反射で引っ込むものだ。(P336)

自治体のリソースは有限であり、その配分は命の選別そのものだ。自分だって内心では、蓑石に産業を興すぐらいなら、旧・間野市の林業を立て直すために金を使ってほしいと思っていた。…けれどそれは、移住者たちの人生をもてあそんだ言い訳にならない。(P340)