とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

60歳を過ぎて思う「親友」とは

 今週月曜日は「成人の日」。成人式は中止や延期にした自治体が多かったが、それでも「成人の日」を機に「親友」との再会を果たしたり、または会えずに残念に思ったという人も多かったのではないか。私もこれを機に「親友」について考えた。

 年末間近に、前会社で同僚だった友人からメールが届いた。彼とは同い年で一緒に退職している。私の方が1年早く入社しているため、20代のうちはあまり面識がなかったが、30歳過ぎて同じグループで仕事をし、打ち解けた。もっともその後はまた離れ離れの仕事になり、たまに会えば話をするが、特別に親しかったわけでもない。それでも同い年というので、それぞれの職場での境遇は似たような状況だったし、育ってきた文化的環境も近いので、あまり口数を多くしなくても、話や気持ちが通じるから、会って気持ちのいい「友人」という感じでいた。

 彼とは退職後は別の職場になったが、お互い近くに寄った時は会いに行ったりする程度の関係にあった。それで昨年2月に、彼を含めた前会社での同僚や先輩ら4人で呑み会を開いた。楽しく時間が過ぎたこともあって、3ヶ月置きの再会を約束したが、コロナ禍が始まって呑み会は中止。そのまま10ヶ月会うこともなく、メールで連絡を取り合うこともなく過ぎてきた。

 その彼から突然のメール。なんでも現職場の状況に大いに不満を抱き、その愚痴を言いたいらしい。Zoomでの呑み会の誘いだ。一瞬「なんで私?」と思ったが、周りに彼の愚痴を聞いてくれる人がいないようだ。年が明けて先日、1年前の呑み会からIT系が苦手な一人を除き、3人でZoom呑み会を開催した。大いに彼の愚痴を聞き、お互いの状況を語り、今後の就職や年金生活の考え方などを話し合った。もう一人は、私が就職した時の最初の職場で先輩であり、かつポケコンで遊んだり、結婚後は家族も一緒に旅行にも行ったりした友人。4歳も上だと「親友」というのは憚られるが、気が置けない友人であることは間違いない。

 正月には今年も多くの友人たちから年賀状が届いた。中学・高校時代の友人や恩師。大学時代の友人。そして就職後にお世話になった先輩・同僚など。彼らの中で「親友」と呼べる人はどれだけいるだろうか。いやそもそも「親友」ってなんだ? 久しぶりに会っても童心に帰って一緒に騒げる友人。愚痴を言い合い、助言し合える友人。そういう友であれば「親友」と言えるだろうか。逆に、同じ子供時代を過ごしても、大人になってからの境遇や環境が違い過ぎれば、嫉みや妬みの感情が生まれ、「親友」に戻り切れないかもしれない。同じ体験、同じ境遇、同じ感慨を抱き、共有できる友人。だからこそ助言したり、同情したり、そして共感できる。そういう友人が「親友」なのだろう。

 先日の彼らとのZoom呑み会は楽しかった。60歳を過ぎると、誰を親友、誰は親友でない、などと分ける気もしない。敢えて言えば、一番の「親友」は妻かな? 彼女こそはそれぞれの判断や行動が直接お互いに影響し合うから。でもそれは「親友」というより、まさに「家族」。「親友」は「家族」よりは遠く、ただの「知人」よりは近い。「友人」と「親友」の違いも分明ではないが、一言で言えば、「『友人』は同じ趣味を持ち、一緒に行動できる仲間」であるのに対して、「『親友』はお互いの立場は尊重しつつ、愚痴を聞いたり、助言をしたりできる関係」といったところか。

 「友人」の中から特別に誰彼を「親友」認定する必要もないが、「親友」と言える「友人」が多いに越したことはない。若い頃は「親友ができないことを悩んでいる」といった類の悩みや相談を見ることがあるが、60歳を過ぎてみれば「親友」はそれほど重いものではない。呑み会仲間が実は「親友」だったりするのだ。