とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

わかりやすさの罪

 世の中は複雑で「わかりにくいこと」が多いが、一方でそれを「わかりやすく」整理して提供しようとする言説にあふれている。また、人々も「わかりやすこと」をいいこととし、求めてもいる。しかし「わかりやすく」することで漏れることも多いし、漏れたことの中にこそ真実が、重要なことが隠れていることも少なくない。だから「わかりやすい」ことには警戒し、「わかりやすくない」ことに耐える力をつけよう。

 本書では終始一貫、24編全編にわたり、手を変え、品を変えて、このことを訴える。時に池上彰を批判し、テレビ番組を批判し、終盤では一昨年の「あいちトリエンナーレ」を巡る河村市長らの言動を批判する。しかも、「わかりにくいこと」をそのまま受け入れることの重要性・必要性を訴えるだけではなく、「わかりやすさ」に流されそうになる自分を諫め、反省したりもする。自分の行動を自省し、迷う。それが赤裸々に窺えるから面白く、「わかりやすい」ようでもあり、逆に「わかりにくく」鬱陶しくもある。

 長々と書かれるが、書が進むにつれて内容が大きく進展したり、展開するわけでもない。ただじっと筆者の訴えを読み続けることになる。正直、それが快感になるわけでもない。でも、筆者の苛立ちはよくわかるから、最後まで読み続けなければと思う。最後まで読んでも、最初の数十ページを読んだ頃と、理解にそれほど変化が生まれるわけではないけどね。でも、一つのことを色々な角度から考えることで深まる理解もある。

 きっとこれからも筆者の本は読み続けるだろう。だってそれは必ず正論であるし、時代の風潮を的確に捉えていると感じるから。読書の魅力は、自分とは異なる感性に触れることにある、ということは本当に彼の言うとおりだ。ちなみに、新聞の効能、ネットニュースの危険性を示す下りにはドキッとした。確かに知らず知らずのうちに、Yahoo!に操られ、読みたいニュース、読みたい評論だけを読んでいたかもしれない。自省し、気を付けよう。

 

わかりやすさの罪

わかりやすさの罪

 

 

○他者の想像や放任や寛容は、理解し合うことだけではなく、わからないことを残すこと、わからないことを認めることによってもたらされる。「どっちですか?」「こっちです」だけでは、取りこぼす考えがある。あなたの考えていることがちっともわからないという複雑性が、文化も政治も、個人も集団も豊かにする。(P20)

○「具体的に考えているつもりだったのに、抽象的にしか考えられていなかった。」/「筋道に沿って考えているつもりだったのに、まるで一貫性がなかった。」/「考えを進めているつもりだったのに、ずっと同じことを考えていた。」/人間の思索や言葉の面白さが、この3つの状況に集約されている。自分が企図するところから、たちまち離れていく感覚。具体的だと確信していたのにたちまち抽象に差し戻され、首尾一貫のつもりが早速逸れてしまい、先を目指して考察していたつもりだったのに、一転にとどまり続ける。だから、ものを考えるって楽しいのだ。(P29)

○正解・不正解をジャッジするのではなく、不正解を放置しておくことが私たちの生活にはもっと必要なのだ。…泣ける、笑えるといった大切な感情の発生を…常に明確にしておかなければならないのは、「泣く」や「笑う」に失礼ではないか。もっと自由に開放しておかなければいけない。感情の発生に「なぜなら」を要請してはいけない。…感情を規定するな。要請するな。こういうものに慣れてはいけない。やりとりに不自由が生じている状態を当たり前にすれば、コミュニケーションも言葉も活性化する。(P172)

○わかりやすいことは価値の高いことではなく、むしろ、心に届かなかったということではないのか…。自分には消化できないものを、受け入れ難いもの、過激なものとして脳内で咀嚼し、流布させることには警戒が必要だ。…一体これは何なんだと不安になり、「すぐにわからなくてもいい状態」を捨てたくなる。答えが欲しい。…私とあなたの意識のズレを埋めようとする。別にそれは埋めなくてもいいのではないか。(P203)

○検索できるのは自分の知っていることのみ、とはよく言われる。…自分が、新聞を紙面で読むことにこだわっているのはそこに理由があり、毎日送られてくる新聞には、必ず、自分の知らないことが、そしてまったく知りたくないことが、確実に一定数含まれている。…理解を示す必要なんてない。そこに、そういうものがあるらしい、と把握することに意味がある。…偶発性をふんだんに用意しておかなければ、唐突な定義に翻弄されてしなう。情報を操作されてしまう。(P216)