とんま天狗は雲の上

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「生涯現役」はやめて、「生涯溌剌」でいこう。

 2月8日付の中日新聞「考える広場」(ネットでは中日新聞購読者以外は読めないようです。m(__)m。)は「身の処し方について」というタイトルで、元中日ドラゴンズ吉見一起さん、INAX元社長の伊奈輝三さん、日本生涯現役推進協議会代表の東滝邦次さんの3人のインタビュー記事が載せられていた。吉見さんは「いかに引退を決断したか」、伊奈さんは「70歳で全ての公職から退いた後、地域ボランティアとして活動していること」について、それぞれ語っている。そして東滝さんは「生涯現役の実践支援に取り組んでいる」というのだが、「生涯現役」って何だ?

 妻が退院し、老々介護に向けて、今年半ばにも退職しようかと考えている。仕事を辞めたら現役から退くということか。でも人生は死ぬまで現役じゃないのか。「生涯現役を支援する」ってどういうコト? 「生涯現役」という言葉を見て、ふとそんなことを思った。

 記事の中で東滝さんは、「生涯現役とは『自分の生きがいが世の中に役立っていること』」と述べているが、これだけではなかなかわかりにくい。そもそも「現役」という言葉の意味がはっきりしない。Wikipediaでは「原義において『現在兵役に服していること』をさす。また、軍事以外の一般の場合においては、『当該の立場に在ること』を意味する」と書かれている。コトバンクでは、デジタル大辞泉を引いて、一般の場合について「現在ある地位・職などに就いて活動していること」とある。

 「現」は「今現在」という意味だろうから、重要なのは「役」の方だ。「役」と言えば、「役目」や「役職」というように「地位や職」を表す場合もあれば、「苦役」「労役」のように「苦行」「人を苦しめるもの」といった感じで使う場合もある。たぶんどんな地位や役目であっても、その人に苦役をもたらすだろうから、後者が転じて、前者のような使用法が生まれたのかもしれない。

 さらに考えてみると、「役職」にしろ「苦役」にしろ、それらはいずれも他者、それも何らかの「組織」から「個人」に与えられるものだということがわかる。東滝さんは記事の中で「定年退職する上司の後ろ姿があまりに寂しそうだった」ので「生涯現役を支援する活動を始めた」と言っているが、実はその上司は、会社を出た後は清々として晴れやかだったかもしれない。東滝さんが組織(会社)の側にいたから、そのように感じた可能性が高い。すなわち「現役」とは、「組織」が「個人」を選別するための言葉ではないのか。そして、役に立つ人間を引き留めるために「『生涯現役』が生きがいにつながる」と言っているのであって、役に立たない人間が「生涯現役」を希望しても、冷徹に退職を宣告するのではないのか。

 では、「生涯現役」を「個人」の側から見てみれば、これは冒頭で書いたとおり、「生涯」すなわち死ぬまで生き続けるという意味で「現役」なのだ。そう考えると、先に上げた「生涯現役とは『自分の生きがいが世の中に役立っていること』」という言葉自体があやしく思えてくる。それは結局、本来各自において自由であるべき人生を、社会(組織)の側として、何とか使い続けてやろう、使役し続けよう、という意図が隠されているようにも思われる。

 だとすれば、「生涯現役」という言葉を易々と受け入れることには抵抗を感じる。組織にとっての現役である必要はない。そもそも人生そのものが現役であれば、「生涯現役」という言葉は、「人生は死ぬまで生きること」という意味になってしまう。同義反復だ。ただ生きるのではなく、どうぜ生きるのであれば、死ぬまで「溌剌」と生きたい。「生涯溌剌」。改めて「溌剌」をネットで検索すると「健康」という意味で使われることが多いようだが、たとえ身体が健康でなくても、心は溌剌としていたい。退職したら、「生涯現役」ではなく、「生涯溌剌」をモットーに生きていこうと思う。

PS.あ、でもその前に「溌剌」という漢字が手書きで書けるようにしなくっちゃ。