とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

平等を保って不平等を論じるのはそう簡単ではない。

 森喜朗の女性蔑視発言以来、性の不平等について自省的に考えている。ちなみに「男女平等」と書かないのは、男性・女性の順で表記することに疑義を感じるからだ。世の中には男性・女性で区別されていることが実に多い。男性としてこうした状況をどう考えたらいいのか、自信をもって自分の考えを表明することができない。

 先週末の「FOOT×BRAIN」では、女子サッカー指導者のパイオニア本田美登里さんがゲストとして出演し、女性サッカーチームの指導について述べていた。その中で、「女子選手が涙を見せると、男性の指導者はオロオロして声をかけてしまうけど、それは逆効果。女性にコントロールされている。女性自身は泣いている自分を客観的にわかっていて、放っておけば一人で納得して立ち直るので、私は放っておく」という話があった。同席していたアナウンサーの竹崎由佳もこの言葉に理解を示していたが、MCの勝村政信と解説の福田正博は困惑の表情。やはり女性の気持ちは女性にしか理解できない。

 日曜日の「ザ・カセットテープ・ミュージック」は「歌謡曲における女性像の変容と変遷」。森発言がある前の収録だろうが、偶然とは言え、実にタイムリーなテーマ。内容は、奥村チヨの「恋の奴隷」に始まって、北原ミレイの「懺悔の値打ちもない女」から阿久悠松本隆らを経て、小室哲哉小林武史が描く自立した女性像までを紹介する。最後に昨年紅白でも歌われた坂本冬美の「ブッダのように私は死んだ」は、古臭い男女の愛憎劇を描いた楽曲だが、桑田佳祐が今の時代にあえて過去の物語をショーケースに取り出して見せたという点で新しいという評価。日本における女性像がこの半世紀で大きく変容していることを明示しており、面白かった。

 月曜日の「羽鳥慎一 モーニングショー」では、山口真由が「アメリカは男女同権で扱おうとするが、ヨーロッパでは、これまで女性が差別されていた現状も踏まえ、女性優遇的に扱おうとする」という意味のことを話していたが、性の不平等に係るこれまでの経緯や現状を前に、議員や役員の女性比率を既定するクォーター制もどう評価していいのか、正直よくわからない。女性には女性のジェンダーとセックスがあり、男性には男性のジェンダーとセックスがある。さらに個々人によっても、ジェンダー(社会的環境)のみならず、セックス(能力の差異)にも大いに差がある。男女平等の理想形は思い描けても、性別の、さらには個々人の差異や個性、多様性をすべてわきまえて、理想形へ至る過程を描くことは難しい。

 性別だけではない。人種や障害者など、社会は差別や偏見にあふれ、不平等である。しかし、健常な男性として日本に住む限り、不平等に扱われたと感じることは少ない。女性はどうだろう。男女の違いに気付いた時から、社会は不平等だと思ってきただろうか。不平等というのは平等な理想形があるから感じるもので、それが当たり前だと思っていれば、不平等とは思わないかもしれない。その点からしてわからない。不平等を論じるためには、不平等を受けた経験がある者、または現に甘受している者でなければ意見を言う資格がないのだろうか。そもそも、個人能力などに差異がある中で、不平等とは何なのか。それすら合意されているわけではないような気がする。不平等を論じようとすると、どうしても自分の中立性に疑いを持ってしまう。平等を保って不平等を論じるのはそう簡単なことではない。