とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

災間の唄

 東日本大震災が発生した2011年から、新型コロナウイルス感染症の感染が拡大した2020年までの「災間」に、コラムニスト小田嶋隆ツイッターに投降したツイートを、フリーライターの武田砂鉄が選定し、年ごとの論評を加えて、列挙したもの。各年の初めには年表が添えられており、第2次安倍内閣が発足した2012年には、習近平中国共産党の総書記に選出され、また北朝鮮金正恩朝鮮労働党第一書記に就任していたりする。わずか10年の間の出来事だ。この10年間で世界では様々な出来事が起こっていたが、一方で我々はネット環境の前に目くらましにされ、世界の実相とは違う世界を生きていたような気がする。

 私自身はツイッターをしないので、日々、何が書き込まれているか、直接には知らないが、ネットで読むニュースでは、ツイッターで誰が何をツイートしたか、どんなツイートが炎上したかなどが事細かに報じられ、わざわざ自分でツイッターをしなくても、ツイッターがどんな世界で、参加すると何が起きるのか、何をもたらせてくれるのかなど、ある程度わかる(ような気がする)。だからなおのことツイッターはやらない。インスタグラムもクラブハウスも、やらない。

 でも、小田嶋隆のツイートは面白い。小田嶋隆日経ビジネスに連載している「ア・ピース・オブ・警句」は毎週楽しみに読んでいるが(ちなみに有料化されてからは、厳選して読むようにしてます)、小ネタを入れつつ、微妙に論点がずれていくその作風は、ツイッターにあっている。しかし、ズレつつも全体としてまとまりを保つ文章は、コラムとして読むにも値する。だから連載コラムは楽しい。でもこうしてツイッターとして並べられたものを読んでも、同様に楽しい。才覚があるなあと思う。「あとがき」で、ツイッターのお笑いネタをまとめた「『災間のバカ』も刊行したい」と述べているが、出版されたら、読みますよ。たぶん、図書館で予約して、だけど。

 でも、こうして10年分を集めて読んでみると、小田嶋隆が言っていることも、社会の世相も、大して変わっていないことが恐ろしくもある。そろそろ「災間」ではなく「災後」の社会に移りたいような気がしてきた。世の中、そろそろ変わりませんか。

 

災間の唄

災間の唄

 

 

○【武田】未曽有の事態だからこそ、慌ててはいけない…冷静にならないといけない…現場はみんな頑張っているんだから…こんな調子が続いた。これはおかしい、と表明している人を指差して、「パニックになるな!」と叫ぶ。…パニックと絆が併用され、物申すことへの嫌悪感が増幅した。で、それは今も続いている。「長いものに巻かれて大人ぶること」がこの国で生きるための「安全パイ」になった。原発が爆発したのに、黙っておくのが「安全パイ」。もう、安全じゃないってのに。壮大な矛盾の中を生きることになった。(P18)

○自転車で走っていると、素晴らしいアイデアがひらめく。でも、走行中はメモできない。帰宅すると忘れている。かように本当に貴重なものは蓄積できない。伝送することもできない。その場で作ってその場で消費するしかない。アイディアも、愛情も、電気も。(P23)

○資産のない人間は政治家になれない。資産のある人間は政治家にならない。政治を通じて資産を作る人間だけが政治家になる。/クールな視点を確保するために「政治業者」と呼ぶことにしたらどうか。/政治の実質的な機能は、下賤な情動に美名を与えることだったりする。具体的に言うと、「正義」や「公正」の旗をかかげつつ「欲望」や「嫉妬」に駆られた人間を糾合することが政治の機能だということです。(P109)

○21世紀の人間がわからないものをわからないままに放置できない短絡主義に陥りがちなのは、ほぼすべての疑問について検索すればとりあえずの答えが得られるネット環境があるからだと思う。個人的には、「わからないのが普通だ」という当たり前の感覚が失われつつあることが、おそろしいと思っている。(P180)

○「骨太の方針」という言葉に対して、私がいまだに敵意を捨てきれずにいるのは、おそらくこの言葉が、役人が役人らしい用語法を無視して広告代理店だとかコンサルみたいな人たちと同じような言葉の使い方をしはじめた最初の用語だったからだと思う。(P230)

○ときどき死にたいと考える人も、病気になりたいとは思わない。理由は、死が非現実的であるのに対して、病気の方はより現実的だから。/ついでに言えば、死がめんどうくささからの脱却であるのに対して、病気はめんどうくささの増加だから。(P303)