とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

愛と性と存在のはなし☆

 読み始めてすぐ、次のような文章に出会う。

○男が女の感覚をわからないこと、それはただの自然である。女が男の感覚をわからないのも。/ちがう身体を持った人への想像力を、わたしたちはほとんど持てない。まして異性の身体の内実は、想像することさえむずかしい。異性は、ごくふつうにいる絶対他者だ。(P20)

 

 本当にそうだと思う。いくら想像を重ねても、私には女性の感覚がわからない。だから、ジェンダーセクシャリティの境目もわからない。そのように思い、先に「平等を保って不平等を論じるのはそう簡単ではない」「『男女平等』ではなく『男女公平』…」を書いた。

 続いて、「ボヘミアン・ラプソディ」のフレディ・マーキュリーや「愛人 ラマン」のマルグリット・ディラスの考察が続き、「スタンド・バイ・ミー」や「日本の戦後」の話になる。「敗戦と父の不在」。「東京プリズン」「愛と暴力の戦後とその後」でも書かれていた内容だ。

 そして、第二章。冒頭に、2019年東京大学入学式での上野千鶴子のスピーチが痛切に批判されている。「女性優位の言語空間」において、男の感覚を知ることのできない女性が、まだ男女経験も少ないであろう新入学生に対して、一方的に暴力的なスピーチをした。当時、かなり話題となり、好意的に受け止められていたと思うが、赤坂の批判は正しい。これは入学式でするスピーチではなかった。

 そして女性の感覚が綴られる。

○女の、ある季節は初潮というかたちで強制的にやってくる。…そこに女自身の意志が関与できることはない。…これに対し、男は種としての「ここからが大人の身体になる」という共通体験がない。…それが男の生きづらさではあるし、共通体験がないからこそ「立場」や「プライド」という人工的なものを必要とする。(P74)

○女は生まれてから死ぬまでホルモンに、体調から感情まで支配されて生きるようで…それに対して意志の持ち方が、よくわからない。持ってもどうにもならないこともあるし、流されようと思ってみれば、すべて流されることもできる。すべてがアクシデントとその結果のように生きていくこともできる。/女の人生は、意志とアクシデントのはざまにある。/そんなふうに言ってみたくなる。(P75)

 

 

 このように書き、第三章「草食男子とは何者か?」と考える。「男の生きづらさ」について想像する。そして突然、モデルとしての仕事の場で、「男性アーティストが突然、全裸となり、キスをされた」という体験が描かれる。えっ、赤坂真理って何歳だっけ? 文筆家じゃなかったっけ? 50歳を過ぎて、いったいどんなモデルの仕事をしているのか? 混乱した状態のまま読み進めていくと、話は次第に赤坂自身の赤裸々な経験談へと移っていく。

 母の死、インドでの瞑想経験。愛と性の話。

○愛は感情じゃない。…ただ在る。…こうやってセックスもできるんだ。純粋に相手への興味から。称賛から。よかった。/極と極。/女と男というのは、固定ではなく、相対性で成り立つものかもしれなかった。…+極にあるものがあって、-極になるものがある。…同性愛とはきっと、同性を異性と感じる感性のことだ。(P172)

 

 そして、親しくつき合う女友達の話に移る。元男にして、男性器を持ったまま、ホルモン治療を受けているトランスジェンダーの女性。彼女と、男性と女性の性感の違いについて会話をかわし、「愛」と「性」は別のものだという結論に達する。愛は大事。だが、性は、欲情は、時に「愛」を振りほどき、暴走する。そうした性(さが)に生まれついた人間という存在。

 終章では、自身の単行本未発表作品「スリーパーズ」における、女性のボディの中に入り込んでしまった男性のセックス(レズビアン)シーンを引用し、母のこと、父のことを綴る。二人の兄の後で生まれた女性。中学校になじめず、突然アメリカの高校へ送り出された経験。早い父の死。そうした経緯の中で、それなりに愛と性を経験し、そして、性と愛のはざまに紛れ込んでしまった女性。赤坂真理をそう評してしまっていいだろうか。

 自分の経験、感性、考察。それらを突き詰めていった末に書き上げられた本だとは思う。でもたぶん、それほど突き詰めなくてもいいのではないか。「流されようと思ってみれば、すべて流されることもできる」(P75)。でも、流されることを拒んだ。「流されておけばよかったのに」とも思うが、人の生き方はそれぞれだし、これほど真剣に自分自身を問う人もいないだろう。女性の感性が赤裸々に描かれた書物として、興味深い。女性は本書をどう読むのだろう。今までところ、あまり話題になってはいないようだが。

 

愛と性と存在のはなし (NHK出版新書)

愛と性と存在のはなし (NHK出版新書)

 

 

○「今は…男性も女性と同じコミュニケーション社会に組み込まれて、男社会と女社会の境目がなくなってきた感じ。女とつきあうには女にならないとダメっていう均質社会」(P113)

○セクハラは、「DV(身内への暴力)」と同じくくりでとらえられなければならないのではないか?…そのうえで、こういう合意が社会にあるべきだ。/「いかに恋愛関係にあろうと、他人にしていけないことはあること。そこで立場や職権、あるいは身体的・社会的な力を乱用してはいけないこと」(P128)

○「女の性感ってどんな?」…「全身にある。どこをさわられてもぞくっとするような感じ、それが全身ネットワークで性感につながる感じ。うなじを触られて乳首が感じるとか。ばらばらに散らばってる場所に連絡回路があらわれる。身体にこんなネットワークが存在するんだ、って感じ。…/男の性感ってどんなの?…/「すべての男はさ、集中力を持たないと勃起がもたないことを、どこかでおそれていると思う…感覚を集中して、うまく勃起するように、勃起が持続するように、射精まで行くように。彼女が満足できるほど持続しているように、そして双方、いけるように。なんか、半ば祈るような感じだよ。…/女性にとってセックスは、コントロールの手放しだ。それが男性にとっては、一貫して集中とコントロール下におかなければならないものだ。…ああ、可哀想だ。(P219)

○セックスと愛を切り離そうとする。/セックスはいつも、親密さと刺激のはざまにある。愛と刺激のはざまで揺れ動く。/刺激が勝つと、愛を捨てかねなかったりもする。…愛と欲情を切り離す。(P226)