とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

新しいジェンダー観が求められている。

 相変わらず、男女平等や女性蔑視事件のあたりをフラフラと考え続けている。先に読んだ「愛と性と存在のはなし」では、上野千鶴子の東大入学式スピーチを、女性らしい感性から批判しており、興味深かった。上野千鶴子と言えばフェミニスト。最近のフェミニズム運動はどうなっているのかと少しネットを検索してみた。すると高橋幸の記事に辿り着いた。

 「『フェミニズム離れ』する若い女子が抱いている違和感の正体:現代ビジネス」は2019年の記事で少し古いが、#MeeToo運動が始まる前から、若い女性の間で「ポスト・フェミニズム」を主張する声が増えていることを紹介している。「アンチ・フェミニズム」はまさに「フェミニズムに反対」という立場だが、「ポスト・フェミニズム」は「既にジェンダー間の平等は達成された」として、これ以上の「フェミニズムは求めない」という意見。だが、この記事の中で高橋氏は、ポスト・フェミニズムを主張する者も、現在のフェミニストも、目指す方向は同じではないかと結論する。彼女が言う「フェミニズム運動」とは、「固有の性に根差した行動を(社会的に)中立的に扱うように求める、そうしたことが常識となる社会を目指す活動」とのことだ。確かにその点は、まったく同意できる。いやもっと言えば、男性であっても現在の日本社会は多くの男性、特に競争の結果、敗者に回る男性(それがほとんどだが)にとっては、けっして満足のいく状況ではない。このことから言えば、「固有の性に根差した行動を(社会的に)中立的に扱うように求める活動」というのはそのまま「各人の個性に根差した行動を社会的・中立的に扱うように求める活動」と言い換えてもいいとさえ思う。

 だが、同性間でさえ差異があるとはいうものの、男女間の差異の方が隔たりは大きいし、赤坂真理が言うように、男性は女性を、女性は男性を、本当には理解できない。理解できない部分が同性同士よりは多い。そういう意味では、まずはフェミニズム運動をがんばってもらい、その後で同性間の平等・公平を目指すという順序がいいのかもしれない。

 だがそもそも何故ジェンダー問題が発生してきたのか、何故ジェンダーがかつてはこれほど問題とはならなかったのかと考えると、現在のジェンダー意識を発生させたこれまで社会構造について考える必要がある。現在では違和感を持つジェンダーも、当たり前のものとして受け入れられてきた時代があったのではないかという疑問だ。

 肉体的・体格的には男性がより優位にあり、女性にしか子供を出産できないという事実。そこからスタートして、生き延びるための様々な行動がどう役割分担されてきたかと考えると、まずは男女を問わず、複数の人間による共同生活があり、老若男女に応じた家事や活動の分担があり、家族単位での小クラスター化とそれが集まっての集落の形成といった順番で人間社会が形成されてきたのではないかと推測される。その中で、世界各地の気候や風土、自然状況、集団相互の交流や抗争などを経て、それぞれの民族等に応じた社会習慣・社会構造が形成されてきた。そして世界の多くの地域で、男性が外に出て金銭を稼ぎ、女性が家事を行うという男女分担が行われてきた。

 しかし、科学技術の発展に伴って女性の家事労働が大きく軽減されると、世界大戦による男性の不在時に、実質、女性が社会を担ってきた経験も踏まえ、女性の社会進出が可能となり、多くの女性が労働に就くようになる。しかし、労働現場はこれまで男性中心で回ってきたことから、「女性は家庭を守ればいい」といった旧来の考えを押し付けるような言動もあり、女性にとっては働きにくく、また正当な評価が得られない実態にあった。これまで男性が中心で運営されてきた組織や社会は、女性が参加するようになっても、当初は運営は男性側が握っていることから、女性の意見や感性への理解が得られにくい。そうした中で、フェミニズム運動が始まり、社会にビルトインされてきたジェンダー意識への批判が強まってきた、という感じではないだろうか。

 たぶん、フェミニズムを研究される社会学者などであれば、もっと簡明かつ分かりやすく説明をされるだろうが、とりあえず現時点で私はそう理解する。とすると、結局、「変化してきた社会情勢にジェンダー意識が追い付いていない」ことが、ジェンダー問題の本質ということになる。であれば、目指すべきは「現在の社会構造や男性・女性意識に合うジェンダー観を見出すこと」。高橋氏の言う「固有の性に根差した行動を(社会的に)中立的に扱うことが常識となる社会を目指す活動」には特に異論はないが、何をもって「中立的」と評価しうるかは色々な意見や評価がありそうだ。男性・女性ともに中立的と感じる社会観・ジェンダー観を見出す努力が必要かもしれない。