とんま天狗は雲の上

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日本習合論☆

 「習合」をコトバンクで検索すると、ブリタニカ国際大百科事典では「人類学用語。文化接触によって生じる2つ以上の異質な文化的要素の混在、共存のこと」、日本国語大辞典では「哲学上または宗教上で、相異なる諸種の教理や学説が融合すること」とある。普通に読むと、日本の「神仏習合」について論ずる本かと思ってしまう。

 実際、第3章「神仏分離神仏習合」では、神仏分離令が出された当時(慶応4年(1868年))の状況が綴られている。しかしこの章はミシマ社の「月刊ちゃぶ台」に掲載された記事が元となっており、全体の流れの中にきれいに納まっているわけではない。「まえがき」で提起された「なぜ神仏習合政令一本で簡単に破棄されたのか」という疑問は、第3章よりもむしろ、第8章「習合と純化」で詳しく論じられている。すなわち、「明治維新という大きな社会転換時にこそ効果を発揮した『浄化論』の一種だ」という「仮説」である。

 そしてそれはとても「危険なことだ」と警鐘を鳴らす。「習合」こそが「ふつう」であり、「日本はこうした雑種文化を以てこそ、今まで永らえてきたのではないか」と反論する。ただし、本書の構成は、必ずしもそこに向けて一直線に論旨が組み立てられているわけではない。「まえがき」によれば、本書はミシマ社の編集者に向けて話した内容を文字起こしし、それをベースに書き下ろしたものだ。そこで、内田氏らしく、「農業」や「会社組織」「仕事」など、一見「習合」とは関係のない事柄についても「習合的」な論考を重ねつつ、「『習合』こそが重要だ」という筆者の主張に近付いていく。読むほどに前に書かれていたことは忘れていってしまうのだが、それこそ内田本の楽しみでもある。

 「少数派であってかまわない」「ミスマッチでいいじゃない」「複雑で雑多なほうが自然で居心地がいい」のだ。「習合は社会集団が寛容で、かつ効率的であるためによくできたシステム」(P67)というのが筆者の仮説だが、実に同感だ。「習合」とは「寛容」と同義語であり、「民主的」ということでもある。

 それで、「『純血』を排して『習合』で行こう」という筆者の意見には大賛成なのだが、本書の中で「おおっ」と目を惹いた記述が2ヶ所ある。一つは、以下にも引用したが、「有閑階級=非生産者=専門家をより多く擁している集団のほうが生き延びる力は強い」(P211)という文章。確かにそうだと認めつつ、なんて不条理な事実であることか。何も生産しない、ただ数字遊びをしているだけの、たとえばトレーダーなどのほうが、地道に田畑を耕し、汗を流して働く人よりもはるかに、数千倍、数億倍も多く稼いでいるという現実。それについては、哲学者の内山節氏の本を引いて、「『仕事』と『稼ぎ』は違う」と言うのだが・・・。

 もう一つは、「『君が代』はイギリス人のフェントンとドイツ人のエッケルトによって作曲された」という下り。もっともWikiでは、「宮内省伶人・林廣守の旋律に、エッケルトが和声を付けて編曲した」としており、本書の記述がそのまま正しいわけではないようだが、驚いた。でも、上の事例も示すとおり、なんでも純血が正しいわけでもなく、うまくみんなで補いながら、習合していくことで、社会は安定し、文化は作られる。

 久しぶりに内田樹らしい、楽しい本に出合えた。「習合」、大事です。私もみんなと違って、唯一無二の存在ですが、だからと言って排除しないでください。これからも異論を思い付いたらブログに書くようにしたいと思う。だからブロックしないでね。

 

日本習合論

日本習合論

 

 

○いったいいつから少数派であることが「悪いこと」で、多数派であることが「よいこと」になったんですか。少数派であるということは、ただその時点では過半数の人の理解同意を得ることができなかった知見を語っているというだけのことです。その原名の真偽や当否とは原理的に関係がない。…集団の過半数が意気揚々と「退化の方向」に掉さしていることなんかぜんぜん珍しくありませんから。ヒトラーのドイツだって…(P35)

○「習合」というのは個々のメンバーは出自も属性も異にしているので、同意性とか…一体感によってはつながることはできないけれど、集団として果たすべき仕事は果たす。そういう仕組みです。…僕がこの本で主張したいのは、習合は社会集団が寛容で、かつ効率的であるためによくできたシステムではないかという仮説です。特に日本列島住民は古代から異物と共生することでこれまで「うまくやってきた」んですから。(P67)

○農業生産が始まってはじめて「非生産者=専門家」が発生します。そして、そのときに人類は、自分は食糧生産に携わらずに、人に労働させるだけの非生産者がいるほうが、生産量は増えるという逆説的な真理を発見したのでした。…彼らは集団を統合させる機能を果たしています。組織管理によって、あるいは技術開発によって、あるいは共同幻想の提供によって。(P210)

○非民主国家の特性は、失敗した政策については「その政策を立案し、遂行するように強く求めたのは私である」と言う市民がいないということです。…これは制度的にいないのです。/でも、民主国家の場合は、政府の政策が失敗したときに、損害を挽回し、壊れた仕組みを復元するために努力する市民としての義務が自分にはあると考える人がいる。…極論すれば、民主国家と独裁国家の違いはそこだけにしかないと僕は思います。(P248)

○「原初の清浄に還れ」というのは、世界中のすべての社会の「浄化論」に共通する文型です。…そして、この「浄化論」…が声高に叫ばれるときに、人々は節度を失って、過剰に暴力的になるのも世界どこでも同じです。…僕が「習合」ということにこだわるのは、「原初」とか「純粋」とかいうアイディアが嫌いだからです。…それによって「純血」をめざす政治的熱狂を抑制したいのです。(P275)