とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

日本語を、取り戻す。

 最近の政治家の言葉には本当にげんなりする。「日本語を、取り戻す。」というタイトルはもちろん、安倍前首相の「日本を、取り戻す。」をパロディったものだが、モリカケ問題を始めとして、国会で語られる言葉は、「いかに揚げ足を取られずに、逃げ切るか」といった「思惑」を「言葉」にしようとするから、何を言っているのか、まるでわからなくなる。しかも、そうした不可思議、朦朧にして意味不鮮明な言葉を、メディアがそのまま使用するから、まるで自分の日本語の方が間違っているのかと勘違いしてしまう。日本語が、強力な磁場の影響を受けて、狂っている。

 小田嶋隆のコラムの多くもこうした、言葉の違和感から書き始められるものが多い。本書にはその種のコラムが集められている。筆者が感じる「違和感」はそのまま私が日頃感じている違和感でもある。言葉を意図的に、もしくは意図せず、微妙に脱臼させる。いつしかそれに慣れて、普通になってしまう。そんなことが多すぎる。たとえば「駆けつけ警護」。何と驚いたことに、外務省の英文ホームページでは「So-called Logistics Support and “Ittaika with the Use of Force”」と書かれているそうだ。「Sushi」や「Tatami」じゃあるまいし、「Ittaika」とは。普通に「Integration」と書けない疚しさ。モリカケ問題の時も公文書の扱いをめぐって、この種の言い換えが多くされてきた。

 日本語が崩れていく。その結果、崩れた言葉にふさわしい「日本人」が生まれている。「常に多数派」の日本人。「競争万能主義」の日本人。「日本語を、取り戻す」。しかし、日本語を使う主体たる「日本人」が既に変わりつつあるようだ。言葉から社会は変わっていく。それを記した本書は、10年後、いかに読まれるのだろうか。20年後、日本語はこの国にまだ残っているのだろうか。今さら「日本を、取り戻す」も空しいが、「日本語を、取り戻す」のも同様に空しく思えてくる。

 

日本語を、取り戻す。

日本語を、取り戻す。

 

 

○安倍さんについて書いたり考えたりすることは、私の心身をひどく疲弊させるのだ。…この疲労感は、安倍さんが、私にとって、思考の対象であるより、感情の源泉だからなのではなかろうか…。少なくとも、原稿を書く作業について言うなら、安倍晋三氏の政策なり人柄なりについて書き起こすことは、は、私にとって頭脳労働であるよりは、感情労働の意味合いが大きい。(P21)

○大多数の日本人は、自分たちが「共謀罪」によってひどい目に遭うことはあり得ないと考えている。/なぜ彼らがそう思うのかというと、その根拠は、彼らが、自分たちを多数派だと信じ込んでいるからだ。…じっさい、大多数の日本人は、なにごとにつけて常に多数派であるようにふるまうべく自らを規定している人々なのであって、それゆえ、少数派である瞬間が、仮に生じたのだとしても、その時点で即座に彼らは…多数派に鞍替えするのであるからして、結局のところ、われわれは、永遠に多数派なのである。(P52)

○令和のこの時代に、ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか。/私は、必ずしもそうは思わない。義務としてニコニコしている人間が少なからずいると思うからだ。…私個人は、いつも真顔でいることを心がけている。/真顔ほど正直な表情はない。/真顔を不機嫌と解釈する人間が増えたのは、単に社会の不正直さの反映に過ぎない。(P105)

○21世紀になってから登場した若い論客は、「競争」を半ば無条件に「進歩のための条件」…「社会を賦活させるための標準活動」ととらえているように見える。…ただ、私はそれでもなお「競争」には、ネガティブな面があることを無視することができない。…私の目には、彼ら「競争万能論者」が「弱者踏み潰し肯定論者」そのものに見える。/彼らは、自分たちが負ける側にまわる可能性を考えていない。(P283)

○お笑い芸人をコメンテーター席に座らせて、政治経済外交防衛いじらせて番組を進行する手法は、21世紀にはいってから顕在化した、「24時間総バラエティ化」の一環だ。実際、今回のコロナウイルス関連でも、お笑いの人間の意見が、最も大きな影響を発揮していたりする。…われら一般国民がテレビを見て笑っている限り、いずれ、この国は、世界の笑いものに成り下がっていく、と、私は思っている。(P306)