とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

遠隔授業の功罪

 「緊急宣言で大学講義が遠隔授業になって」、1ヶ月半。緊急事態宣言の解除とともに、来週から再び対面授業に戻ることになった。この間、計6回。私の場合、Teamsでの講義だったが、最初こそいろいろと戸惑いもあったが、何とか無事、6回の講義を終えた。

 最大の失敗は「共有」をクリックせず講義をしてしまったこと。講義終了後、ダウンロードし、録画状況を確認したところ、ほぼ90分間、ひたすら私の顔が映っている動画が流れていた。私のパソコンにはパワーポイントによる資料画像が映っており、それを見ながら講義をしたのに、その画像が流れていなかった。結局、パワーポイントとそれをPDFに変換したファイルを掲示板に投稿し、学生には資料を見ながら講義録画を聴いてもらうように促した。でもオンラインで受講していた学生は驚いただろうな。注意してくれればいいじゃないか。

 それでも「録画」を忘れて講義をしてしまうという失態は犯さなくてよかった。万一そうしたら、受講者のない状態で再度、講義をする羽目になる。他にも、一時的な「共有」忘れや、最初は予定会議室とは違う会議室を立ち上げて講義をしてしまうなどの失敗もあったが、大失敗は免れた。ああ、よかった。

 私と同様に今年度から同大学の非常勤講師を始めた友人から、「段々、オンラインでの受講者が減っていく」という嘆きの電話があった。彼の講義は同じ内容で前後期あるが、前期は10人程度しか履修登録をしなかったとのこと。私の場合は前期に70人近い履修者がいるが、オンライン受講者は最初の頃は約半数。5・6回目には20数名に減少した。オンデマンドで受講している学生がどれだけいるかわからないが、オンラインだとて本当にパソコンの前で講義を聴講しているかどうかわからない。みんな自らの映像はオフにしているので、会議室に入室さえしておけば、講義中にパソコンの前を離れようが、わからない。誰か一人くらい、映像をオンにしてほしいと思うが、女子学生も多いので結局言い出せなかった。

 それでも、5回目、6回目には細かい失敗もすることなく、概ね満足の行く内容で講義を終えることができた。するとふと思う。来年もまた遠隔授業になったら、これをそのまま流せばいいのではないか。……きっと全国の遠隔講義をしている講師の多くが同じことを思ったはずだ。有名な学習塾ではすでにコロナ禍の前から、有名講師による映像授業が行われていた。それと同じだ。だが同時に思う。そんなことしたら、有名講師ではない自分には仕事が回ってこないのではないか。

 小中学校でも全生徒にタブレットが配布され、コロナ禍での遠隔授業での活用に期待が高まっている。しかしこの方向が進んでいくと、授業の多くが映像授業に置き換わっていくのではないか。教師不足が言われる中、文科省の真の狙いはそこになるのではないかと、ふと危惧の念が起こった。小学生ではまだ無理でも、高校生なら多くの科目で映像授業への切り替えも可能なはずだ。現に多くの学習塾ではすでにそうしているのだから。

 しかし、そのことによって失う教育面での影響もあるはず。教育とは何だろう。そもそも大学は教育機関なのか? 教育と研究の双方の役割を担うと考えれば、教育の役割は遠隔授業で、研究の役割は個別授業で、と授業形態を分けるという考え方もできる。コロナ禍が小学校から大学まで、教育機関に及ぼした影響は小さくない。コロナ禍で学校へ行けなかった小中学生の人間的成長に対する影響を憂慮する声も聞くが、教育方法に対しても多くの課題と検討材料を残したに違いない。大変だ。

 いや、そんな大局的感想に思いを馳せている場合ではない。考えてみれば緊急事態宣言前の対面授業すらまともにできなかった。反省点てんこ盛りのまま遠隔授業に変わってしまったのだった。私の場合、まずは対面授業こそ見直す必要がある。やり直しがきかない対面授業の方が、遠隔授業よりもはるかにハードルが高い。大変だ。さあ、来週の対面授業の準備を進めよう。