とんま天狗は雲の上

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パンデミック下における新しいオリンピックの形は北京で示される?

 強行された東京五輪は多くの競技を無観客で実施することになった。私は昨年から「東京五輪、開催延期でいいじゃない!」と主張してきたが、結局、1年延期されたのみで、強行開催されることになった。1年後には必ず開催するという強い意志があったのであれば、1年延期を決定した時点で、どういう事態になっても(パンデミックが収まらなかったとしても)安全な形で開催できるよう検討を進めるべきだったと思うが、わが国の組織委員会は内輪揉めに終始し、IOCからの救いの手を待っていただけのように思われる。しかし開催さえできればそれでいいIOCから期待した指示はなかった。こんなことなら昨年開催した方がまだマシだった、というのはもちろん今だから言えることだが、それにしてもあまりの無為無策にはがっかりする。日本の国力の凋落と能力の低さを世界に知らしめる大会となってしまった。

 一方で、今度の冬には北京冬季五輪が開催される。開催まであと7ヶ月。既に、入場チケットの販売なども始められているはずだ。だが、少なくとも中国から、北京五輪開催の是非といった声は聞こえてこない。中国では(公式見解としては)新型コロナの感染拡大はほぼ抑えられているし、何より中国の政治体制のせいもある。しかし、そうした政治体制ゆえに、国際世論への対応は徹底的に調査・検討されているだろうし、北京五輪で再び、東京五輪のようなドタバタは見せられないと考えているはずだ。

 そのためには、日本が東京五輪の1年開催延期を決めた時点から、日本の準備状況や競技団体等の状況、米国を中心としたメディアやスポンサー等の動向などを十分調査し、いかに安心・安全に北京五輪を開催するかという検討と対策を徹底的に進めていることだろう。北京五輪は、パンデミック下における新しいオリンピックの形を示す初めての大会になるに違いない。

 一方で東京五輪は、新型コロナというパンデミックに翻弄され続けた。海外選手の感染対策としてのバブル方式は口先だけの不完全なものだし、国民から中止と延期の世論が盛り上がる中、直前になって無観客に変更するなど、世界にその対応力と事前準備力の欠如を示し続けている。「東京五輪をレガシーにする」と当時の安倍首相は言っていたが、これぞまさに「負のレガシー」。従来型の運営方法はパンデミック下では不十分であり、安心して、選手や国民が心から楽しめるイベントにはできないということが東京五輪を通じて明らかになった。

 そしてそんな負の経験を踏まえ、北京五輪は「真のレガシー」として開催すべく、検討と準備が進められていることだろう。北京五輪が開催された後で、いかに東京五輪がダメだったかが明らかになる。その時、世界中の人々は日本に対して、どういう思いを持つだろうか。「日本はもうダメだ」「衰退国だ」「アジアの覇権はやはり中国のものだ」。そんな感想を抱くのではないか。

 そんなことならいっそ中止すればよかった。若しくは1年延期し、北京五輪の状況を見て、運営方法を検討すればよかった。日本はこれまでも、オリジナルを生み出すより、模倣する方が得意ではなかったか。「日本は世界の先進国の一員だ」。そんな誤った自負と過信が東京五輪を誘致させ、開催までのドタバタを引き起こした。そのことを大いに反省し、これからは中流国としての自戒とプライドを持って国家運営を始める。そんな転機の到来を告げる東京五輪になるような気がする。そうであればそれもまたレガシーとして意味があったと思えるようになるのかもしれない。