とんま天狗は雲の上

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主権者のいない国

 第1章最初の論考は「安倍政権の七年余りとは、何であったか。それは日本史上の汚点である」という痛切な文章で始まる。本書は2017年以降、各種の雑誌や新聞等に寄稿した論考を集めたものである。「国体論」で戦後の75年を、それまでの国体としての「天皇」を「アメリカ」に置き換えただけではないかと指摘した筆者だが、そうした歴史認識をベースに現在の日本の政治、中でも安倍政権とそれに続く菅政権を批判する。

 安倍政権・菅政権を批判する論考を集めた第1章は痛快だが、筆者の主張はそれに留まらない。第2章の「新自由主義」批判、第3章の「天皇制」に対する論考、第4章では沖縄問題や日韓関係を扱い、第5章では中曽根康弘西部邁らを論評する。しかし、いずれも批判するだけではない。一方で、なぜ我々日本国民はこうした政治家の長期政権を許しているのかという根本的な問いに考察を巡らせる。

 「なぜ私たちは主権者であろうとしないのか」。終章のタイトルである。東日本大震災福島原発事故を無きものとしたいと願う心性が、その後の安倍長期政権を許したという指摘は重要である。第二の国体である「アメリカ」も衰退しつつある今、第二の終戦はいかに訪れるのか。その時、我々は第三の国体を見つけ出し、捧げるのだろうか。それとも真の主権者として立ち上がるのか。その時はもうすぐ手前まで来ている。東京五輪を終えた後、我々はどういう日本を見るだろうか。新たな国体が「中国」でないかという疑念がふと浮かんだ。

 

 

○3.11という「平和と繁栄」の終わりを象徴する出来事の意味を全力で否認することこそ、2011年以降官民挙げてこの国と国民の多くが取り組んできたことにほかならない…。この「否認」が、3.11以降の国民的な精神モードであったのだとすれば、安倍政権は国民の期待によく応えたと言える。実に、安倍政権とは、3.11が国民に対して与えた精神的衝撃に対する反動形成であった。(P40)

○今日安倍政権支持者に典型的に見て取れる態度は、合理的な信頼ではなく軽信・盲信であ…る。他方、治者の側は、被治者を…愚昧な群衆として扱(う。)…かくして、深いシニシズムこそ、中流階級が没落するネオリベ・デモクラシーとなる。指摘すべきは、反知性主義への傾倒はここでは支配体制にとって不可欠な要素となることである。…今日始まりつつあるのは、国家と啓蒙主義の根本的分離である。(P119)

○この国には「社会」がない。…「権利」も同様である。敵対する可能性を持った対等な者同士がお互いに納得できる利害の公正な妥協点を見つけるためにこの概念があるのだとすれば、…社会内在的な敵対性を否認する日本社会では、「正当な権利」という概念が根本的に理解されておらず…すべての権利は「利権」にすぎない。…こうした「敵対性の否認」に基づく思考様式にどっぷりつかった層が今日の反知性主義の担い手となっている(P145)

○歴史意識とその衝突の問題は、つまるところパワーポリティックスの問題であり、われわれが本来歴史に期待することのできる、叡智、自己理解と他者理解、共感や連帯の可能性といったものとは別次元にある。われわれは、歴史意識と無縁でいることはできないが、その影響力を自覚することはできるし、自らの歴史意識を他の物語に開かれたものへと改めることもできるはずである。(P268)

○内政外政ともに数々の困難が立ちはだかるいま、私たちに欠けているのは、それらを乗り越える知恵なのではなく、それらを自らに引き受けようとする精神態度である。真の困難は…主権者たろうとする気概がないことにある。…そして、主権者たることとは…人間が自己の運命を自らの掌中に握ろうとする決意と努力のなかにしかない。私たちが私たち自身のかけがえのない人生を生きようとすること…それが始まるとき、この国を覆っている癪気は消えてなくなるはずだ。(P317)