とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

街場の芸術論

 例によって、様々な媒体に書き散らかしたエッセイや論考などを集めたコンピレーション本である。今回のテーマは「芸術」。序章は「表現の自由言論の自由、民主主義」というタイトルで、表現や言論の自由についての考察が並ぶが、第1章以降は「三島由紀夫」「小津安二郎」「宮崎駿」「村上春樹」とそれぞれの作家を対象にした論考やエッセイが集められている。そして第5章「音楽と、その時代」では、大瀧詠一ビートルズビーチボーイズキャロル・キングなどを語るエッセイが並び、劇作家・演出家の平山オリザとの対談で終わる。どれも比較的気楽に読める内容の文章だ。

 それでもそれほど肩に力が入っていないぶん、意外に珠玉の言葉が散見される。「民主主義は常に未完のものとしてしか存在しない。」「知性とは形成する『ちから』だ。」「植物的時間を日本人は終戦とともに失った」「『今・ここ・私』を中心としてものを見ることを自制せよ」、そして「”寂しさに耐える”ことこそアートの一番の役割」。いや、最後の引用は対談相手の平田オリザの言葉だったけど、いずれも自分中心で物事を考えず、力の入っていない感じがとてもいい。

 所詮、私たちは日本という国に生を受けて、ひととき、この時間に生きている生物の一つに過ぎない。すべてのことは他があって存在し、他があって生かされている。そのことを謙虚に実感し、思うからこそ、上のような言葉や考えが生まれるのだろう。肩肘張らず、素直に、謙虚に生きていきたい。芸術とはまさにそうした人々の思いと祈りが生み出すものであるに違いない。真剣に、かつ客観的に、生きていきたい。

 

 

○民主主義はまだ存在しない。私はそう思っている。「まだ」というか、たぶん永遠に存在しない。民主主義は「それをこの世界に実現しようとする遂行的努力」というかたちで、つまりつねに未完のものとしてしか存在しない。/それでいいのだと思う。/高い目標をめざす努力というのはどれも「そういうもの」だからだ。(P17)

○知性とはかたちあるものではない。かたちをあらしめるもののことだ。形成された「もの」ではなく、形成する「力」である。/もし現代日本が多くの人にとって「知性が沈黙している時代」であるかのように感じられるのだとしたら、それは知識や情報が足りないからではない。…それを生気づける「力」がない。立場を異にする人々…が…「一緒にいる」ことのできる場を立ち上げることが「言葉の力」だという三島の洞察が理解されていない。(P58)

里山の風景は戦争に負けてもそれほどには傷つかなかった。/けれども、深く傷つけられたものがある。/それはそのような「みどりの多い日本の風土」の中でゆったりと生きていた日本人たちの生活時間である。/人々はかつてこの風土に生きる植物が成長し、繁茂し、枯死してゆく時間を基準にしておのれの生活時間を律していた。…でも戦争が終わったときに、日本人はその生活時間を決定的なしかたで失った。(P132)

○何でも今基準にして考えちゃいけません。…昔から流れて来ているから今があるんです…歴史を逆に見ちゃいけない…それは「今・ここ・私」を中心としてものを見ることを自制せよ、ということです。…おのれによって「自明」であり「自然」と思えることを、そのまま「現実」と思い込まないこと。自分の「常識」を他の時代、他の社会、他の人間の経験に無批判的に適用しないこと。それが系譜学者にとって、第一に必要とされる知的資質です。(P196)

○日本はもはやアジア唯一の先進国でも、工業立国でもない。その寂しさと向き合うことが大事だけど、その寂しさと向き合えない人の寂しさとも向き合わないといけない…予想以上に格差が拡大していく中で、コロナ禍で人々の心が荒廃し、その寂しさとみんな向き合えなくなっていると感じます。…“寂しさに耐える”というのはとても大事なことで、これが本当はアートの一番の役割だと思います。(P262)