とんま天狗は雲の上

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海神の子

 直木賞を受賞した「熱源」には圧倒され、感動した。川越宗一が続いて執筆した小説が本書。鄭成功の一生を描く。名前は知っていたが、何をした人かまでは覚えていない。オランダ商館から台湾を奪還した明代末期の英雄。清に代ろうとする時にあって、最後まで明朝の復活を願い、戦った。国姓爺合戦も聞いたことはあったが、鄭成功の話とは知らなかった。

 母は日本人の田川マツ。ただし、本書では実母の松は実父である鄭芝龍を殺し、代わりとなって海賊の頭として生きる。鄭成功、幼名「福松」は田川家のマツに育てられ、松が引き取って、中国で成長したことにしている。「松」の音が海の女神「媽祖(マーツー)」に似ていることから、福松=鄭成功を巡る小説のタイトルは「海神の子」。

 その実母や養母、弟らとの交流や国姓爺合戦にも登場する甘輝との友情が本書の主要なテーマか。大衆小説としてはそうした人情話も欠かせないし、面白い。だが、どうして鄭成功がそこまで明に肩入れするかが描かれていない。自ら、天命を得て「皇帝になる」と宣言する場面もあるが、もちろん実現はしない。

 完全フィクションの小説であればもっと自由に想像を羽ばたかせることもできようが、基本、史実から大きくは離れられない。いや、実母を創造した時点で、どこまで想像を膨らませても構わないわけだが、そこまでは描かない。歴史小説らしい自重だ。だがそのために中途半端な感じがしなくもない。

 「日本から来たこの友人はただ、大きな天から弾かれた人々のための小さなどこかを、海に作ろうとしているだけだ。そうするたびにうまくいかず、国姓爺だの南京を攻めるなどと話ばかりが大きくなり、いっぽうで近しい人が離れていってしまう。」(P369)という甘輝の言葉は、作者がこの小説で最も言いたいことを描いているような気がする。人の運命はわからないものだ。鄭成功だって、まさか死後、自分がこれほどまでの英雄になっているとは思わなかったに違いない。海神の子は結局、ただの人間の子でもあった。

 

 

○人は、衣食では生きられない。働き、その対価を得ることを通じて、生きるための誇りを守っている。蛟を生み育ててくれた蚤民たちが、貧しさと蔑視の中で胸を張っていられたのも、漁撈などの生業があったからだ。抗争によって拡大した鄭家は、反面で程度がさまざまな怪我人や寡婦、孤児を作り続けた。それを彼らの責任として放り出すのはどうしても納得がいかなかった(P126)

○澄んだ青色が抜けていた。あんな空っぽのどこに、命ずる意思が宿っているのだろうか。/これは、虚ろだ。/福松はそう直感した。幾多の王朝が興亡したと銭謙益は言った。つまりは、成り上がりが天下を統べる名分を求めて、天命吾に降れりと称するのであろう。(P154)

○「てめえは…戯れに親を殺されたことがあるか。国ってやつに踏みつけにされたことはあるか。明なんてものがあるから、俺はこうなった…てめえがやってることは、遊びだ。てめえが作った国は、そこで生きられるやつと無理なやつを選ぶ。…俺が憎むのは人の世だ」…この男は悪意そのものだ。人という存在そのものを呪い、人の身である己すら…嫌悪している。だから己の生を使い捨ててまで、他人の生に拭えぬ汚れをつけられるのだ。(P281)