とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「中国」の形成☆

 先に「海神の子」を読んだ。明代末期、中国南部海域で活躍した鄭成功を巡る小説である。本書はその前に購入していたが、このタイミングで本を開いた。まさに明朝末から清朝、そして現代にいたる「中国」の歴史を記した好著である。

 「華」「夷」二分法の朝貢体制で支配してきた明朝の体制が、当時のグローバル化が進む中で崩壊し、後を継いだ清朝は、漢人及び儒教国相手には朝貢体制、チベット・モンゴルの遊牧民相手にはチベット仏教、日本その他の貿易による外交を迫る相手に対しては「互市」と、それぞれ多元的に対応し、何とか政権を保ってきた。だが20世紀に至り、そうした多元的バランス対応では持ち堪えることはできなくなり、清朝解体、遜位を余儀なくされた。

 西洋・東洋を問わず、世界の多元化に対して、いかに対応するか。それはまさに現在に至る世界の課題かもしれない。清朝政権運営が崩壊した後、中華民国の建国、国共合作共産党政権による中華人民共和国の樹立と推移してきた中国は、今もなお、一つの中国と多元化する世界との間で模索を続けている。一方、中国以外の世界も、米国による覇権体制に陰りが見える中、多元的世界をいかに平和に保つかで混乱し、苦悩している。アフガニスタンしかり。ことは中国だけの問題ではない。

 歴史は未来を描くわけではない。しかしどういう経緯で現在に至ったのか、それを理解するための示唆を与えてくれる。清朝の苦悩はまさに現在に通じる。我々はこの状況にいかに対応すべきだろう。恒久的な世界平和への道はいかに作っていくことができるだろうか。現在の中国のやり方は成功するのだろうか。そして日本はどうあるべきか。清朝の歴史は我々に多くのことを考えさせてくれる。

 

 

○ウェストフェリア体制・国際関係の創出とヘゲモニーの争奪・移転という西洋史・近代史の展開は、多元化した要素を多元のまま固定し、そのうえで一定の秩序を見いだそうとしたものだった。…しかし当時の世界全体でみれば、決して普遍的ではない。…少なくとも東アジは、そうはならなかった。…騒乱やまない多元化をいかに収拾したのか。…その世界史的な課題に、東アジアで立ち向かって、一つの答えを出したのが清朝なのである。(Pⅹⅳ)

○地方実地の事情に通じない中央が…一方的に権力を行使し、画一的な政策を強行して、各地に多大な混乱と弊害を招いていた。…大学者の顧炎武…は実地に庶民・社会と接して行政にあたる「小官」が少なく…官吏の不正・非違を監察する「大官」ばかりが増えた現状を批判…「盛世には小官が多く、衰世は大官が多い」と断じた。…清朝はそうした明末の政体・体制をそっくり受け継いだ。…しかし…非力に失した。…当面の苦境を克服し、眼前の混乱を収拾して生き延びるだけで精いっぱいの実力だったのである。(P57)

○通貨の設定をはじめとして…行政の業務・サービスとみなすことがらの多くは、民間がゆるやかな組織を独自に結んで実施している。…これに対して、政府権力は納税と刑罰を強いるだけの存在だった。…ところが18世紀も後半になれば、人口・移民の増加で、公権力の手の及ばない中間団体が増殖した。…その結果、新開地では当局に反撥…する秘密結社・宗教団体が、おびただしく生まれた。…明代に定着した官民の乖離と相克がいっそう拡大したのが、清朝の時代であった。(P102)

○明朝は…一律に「朝貢一元体制」、「華」「夷」の二分法をあてはめたあげく、統御に失敗する。…満州人は遊牧世界ばかりでなく、漢語世界にも海洋世界にも対応できる複眼を有し、それぞれに「チベット仏教世界」、あるいは「朝貢」「互市」という複数の秩序を打ち立て、バランスよく併存させ得た…しかし時間が経過するにつれ…清朝満州人の複眼能力も、相対的・絶対的に衰えた。…乾隆時代を通じて、明代さながらの「華」「夷」二分法に回帰してしまった。(P112)

モンゴル高原でボグド・ハーンが即位して、新政権を樹立したのは、1911年12月29日。はるか長城の南では、奇しくも同じ日、やはり清朝から「独立」した漢人の各省代表が南京で、中華民国臨時政府を組織している。…清朝はこのとき、名実ともに解体した…。17世紀の東アジアで誕生し、そのカオスを収拾すべく、多元共存の中心的な役割を果たしてきたのが、清朝であった。 (P170)