とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

旅する練習

 昨年下半期の芥川賞で次点となった作品。だが、私は本書を「サッカー本大賞」で知ったのではないかな? 結局、こちらも受賞しなかったけれど、サッカー本大賞よりは芥川賞の方がよく似合う。サッカー少女と小説家の叔父が、手賀沼近くからカシマスタジアム近くの合宿所まで歩いて行く3泊4日の旅を綴った作品。

 叔父が道中、名所旧跡で文章写生の練習をする間、少女はリフティングの練習をする。そして旅の途中で一緒になった就職間近の女子学生との交流。道中で知ったカワウの習性とその死。一旦、別れた女性とも無事再開し、女性の新たな決意と旅立ちを見送る。鹿島神宮は旅立ちの神でもあるそうだ。

 名所旧跡での描写や縁ある文豪たちの引用などの老練な味わいと、元気いっぱいな少女の言動との対比が面白い。そこで「筆者は何歳なのか?」と調べたら、まだ30代半ば。若い。作品の中ほど、女性の登場からようやくストーリーが動き出し、彼女の決意と旅立ちで大団円。と思ったら、最終ページで・・・。そんな必要があったんだろうか? いや、それがあるから、全体に光が当たるのかもしれない。それにしてもショック。実話かと思って調べたが、やはり創作の世界。筆者自身、同じ道を写生練習とリフティングをして歩いたそうで、叔父と少女は筆者の分身。それゆえにあの結末? だがやはり納得がいかない。

 この種の小説を久しぶりに読んだ。乗代雄介。次作も読むだろうか? いや、この結末を読むと、次作を読む勇気がしばらく湧いてこない。「亜美」と書いて「アビ」。海鳥の名前だ。一旦潜るとなかなか現れない。思わぬところから顔を出して驚く。亜美もそうであるならいいけれど。

 

 

○「亜美は最初は土の上で、それから…日当たりのいいところに場所を移してリフティングをしていた。…「これからこれを、鹿島までずーっと?」/「そう。歩く、書く、蹴る」/「歩く、書く、蹴る」鸚鵡返しに一言加える。「練習の旅」/嬉しそうに何度もうなずいて「いいねっつ」と笑う亜美はボールさえ蹴っていればたいてい機嫌がいい。私が書いてさえいれば機嫌がいいのと同じように。(P016)

○どんなものでも死はありふれたものと知りながら、それがもたらすものを我々は計りかねている。それでも何か失われたように感じるのは、生きることが何事かもたらすという思い上がりの裏返しだろうか。…しかし、これら記憶がいつくかの場所に、文がこびりつくようにしばらく残留するのであれば、ちっぽけながらもこうして紙碑を建てている私だけの幸福ではあるまい。…書き続けることで、かくされたものへの意識を絶やさない自分を、この世のささやかな光源として立たせておく。そのための忍耐と記憶(P130)

○「決めた…私、内定辞退します」…「この町に引っ越して仕事を捜す」/「この町…鹿島に!?」/「鹿島に…ここで暮らす」/「やったーー!」/「でも…ほんとにいいの?」/「私ね」みどりさんはジーコを振り仰いだ。「この人のこと知らなかったら、旅にも出ていなかったし、二人にも会えなかった。それってすごく不思議なことでしょう」/亜美は強くうなずいた。/「大切なことに生きることを合わせてみるよ、私も」(P144)

○一人待っている私の方は、はっきりとした目的というものを久しく名指しせずにいるような気もしていたが、この旅を書くことで、その足取りの頼もしさを確かめたいのだと今ならわかる。ただ大事なのは発願である。もう会えないことがわかっている者の姿を景色の裏へ見ようとして見えない、しかしどうしようもなく鮮やかに思い出されるものがある。その感動を正確に書き取るために昂ぶる気を抑えようとするこの忍耐も、終わりに近づいてきた。(P156)