とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

日本の盲点

 東日本大震災の後、開沼博の名前を見るようになり、何冊か本も読んだ。当時は東大の大学院に在籍していたようだが、その後、立命館大の准教授となり、そしてこの4月から東大の准教授に就任した。久しぶりに筆者の名前を見たので、思わず購入してしまった。しかしやや期待外れだったか。

 「東大話法」というのがどういうものを指すのを十分理解してはいないが、本書を読むと、こういう論の立て方をいうのかもしれないと思ってしまった。一つの事柄に対して、複眼的に見る。結果、何を言いたいか、わからなくなる。どちらの立場にも立てなくなる。確かに今、日本で耳目を集める言説の多くは、自説に固持し、偏っているだろう。だが、それを中立的に受け入れ、また批判しても、結局のところ、もう少し様子を見ようか、ということになってしまう。それでどこに行くのか、よくわからなくなる。それでいいのだろうか。

 月刊誌「Voice」に連載した論考をまとめたものだという。字数も限られているだろうから、安易に結論を書くのはできかねるのかもしれない。色々な見方を紹介してもらい、その先は自分で考えるべきなのかもしれない。しかしそれでは開沼博はどう考えているのか。「専門家や担当者は、いろいろ考えているんですよ」。それはそうだろう。だがそれを紹介されても、脱力するしかない。無駄な時間を使ってしまった。開沼博ってこんな学者だったのか。でも、東大に戻ったから、ひょっとしたら数年後、テレビ等で活躍する評論家になっているかもしれない。要注意人物なのかもしれない。

 

 

○トラウマを受けたあと、そこから回復し、むしろそれをバネに新たな自分に出会う。これがPTG(Post Traumatic Growth:心的外傷後成長)だ。傷つき打ちのめされた経験があるからこそ得られる成長もあるという見方であり、そういう経験をもつ人もいるだろう。「危機」は…成長のきっかけとなる。…危機を前にして、忘れるのではなく…過度に悲劇性・逸脱性を煽り立てるのでもなく、そこから何を私たちが受け取ることができるのか私たちはつねに問われている。(P39)

○近代化・民主化の歴史とは、社会的に排除されているものを発見しては包摂する無限運動の歴史でもある。身分制・人種差別や世代や地域や貧富の差など、さまざまな線引きのもとで虐げられる人を救済する。…排除されるものを発見しては包摂して、「とんでもないならず者」をそうではなくしてきたのだ。…何かを包摂しようとするなかで何かを排除していないか。それでもなおどこかに線を引き、それが誰のためになるのか。そんな自覚を内包した視点が、現在に存在するいくつかの閉塞感を打破する契機になる。(P50)

○人びとは現代的リスクに直面すると、安易に民主主義やそのプロセスを手放す。…しかし、“独裁的”に一度決められてしまったことを民主的に覆すことは容易ではない。…「リスクがつくった独裁」による歪みを視野に入れつつ、長期的な展望を描く議論をはじめるべきだ。(P89)

○近代化とは“伝統や共同体の崩壊の大きなプロセス”だ。災害による非難のような大規模な人の移動は地域共同体や民俗芸能を破壊する。一方、若者・よそ者に活躍の場が与えられ、かねてから構想されていたが種々の制約のなかで止まっていた再開発計画が実行に移される。帝都復興も太平洋戦争後の戦災復興も、日本の近代化を加速するうえで不可欠だったことは言を俟たない。…過剰に悲観する必要はない。そこにはいまより、より効率的でスマートな何かが待っているかもしれない。(P92)

○いかに専門知を活用できるか。科学と政治・社会との「時差」と「責任の所在」の問題は重要だ。ある専門知が科学的に合意されるまでには一定の時間がかかる。一方、政治的・社会的合意形成は、つねに早急になされる必要性に急き立てられる。この時間間隔の差は、同じ現象を目の前にしても、科学(者)と政治(家)・社会とのあいだにまったく違う態度を生み出す。政治・社会の側に、判断と責任の真空地帯を生み出してしまう。(P234)