とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

偉い人ほどすぐ逃げる

 先に、開沼博「日本の盲点」を読んで、何だこれ?と疑問を持った。結局、何が言いたいの? 素人は黙っていろということかと大いに不満を感じた。その次に本書を読んで、あまりの違いに驚いた。絶対に、武田砂鉄の方が正しい。素人は素人なりに、何を考え、何を訴えてもいい。いや、武田砂鉄はしっかり調べ上げ、その上で、揚げ足を取る。足を取って相手を土俵に這わせる。だが、転んだはずの彼らは、土俵が違うと言う。転んでも負けじゃない、そんなルールじゃなかったはずだと言う。そしていつの間にいなくなったかと思うと、別の土俵で、取り巻きに囲まれて相撲を取っている。そこではみんなコロリと負ける。いや、転がしても勝利じゃないはず。なのに嬉しそうだ。

 「文學界」で連載したコラムを加筆・改稿して収録したもの。武田砂鉄はこうしたコラムが最も面白い。要所を抉り、痛快である。そして真っ当だ。「おわりに」で「『偉い人』の定義は人それぞれ」と書かれている。「民主主義国家における政治家は、自分たちの代わりに政治の仕事をしてくれている人であって、決して『偉い人』ではない」(P259)とも。

 確かにそうだ。でも、自分を「偉い人」と思っている人、「偉い人」と言われたい人、多くの人が「偉い人(であってほしい)」と思っている人が、どう見ても「偉くない行動」をする。感情的になったり、恫喝したり、嘘を言ったり、そして最後は「すぐ逃げる」。つくづく「偉い人にはなりたくない」と思う。いや、なりたくもなければ、なれもしなかった。「偉い人」になりかけたかもしれないが、結局のところ、なれなかったと思う。で、「偉い人になれなくてよかった」と思う。そう、良い子の皆さん。偉い人にだけはならないように気を付けようね。

 

 

○オマエの本気はその程度か、という挑発って、一見真っ当に思えるものの、アナタの基準に合わせにいく、という行為は何より本気から遠ざかるわけで、「本気出してオレに合わせろ」という要請は、根本から矛盾している。(P30)

○アベノマスクの話をすると、皆の顔がパッと明るくなる。自粛生活の中で溜まっていたストレスをアベノマスクが引き受けてくれたのかもしれない。260億円かけて、私たちを笑顔にしてくれたのだ。自分の中の不安感を、特定の地域の人々や感染者にぶつけてはいけない。でもあのマスクであれば問題ない。だって、偉い人を除けば、使っている人はほとんどいない。たとえ使っている人がいたとしても、それは消極的利用であるはず。利用者だって、ツッコミを待っている。(P76)

○怒ること、抵抗することって、そんなに簡単に軽視されてしまっていいのだろうか。最近では…いつだって自分は冷静、と打ち出してくる人から軽視される覚悟を決めなければいけないのだが、そもそも軽視するほうの判断が間違っているのでは、とこちらは考える。…怒っているだけじゃ変わらない、とする分析屋さんがそこかしこにいる。分析しているだけではもっと変わらないと思う。(P112)

○ 強い力を行使できる人がキナ臭いことを企み、それを明らかに隠し通そうとしている時に、疑ってかかる側に「証明せよ」と凄んでいく。批判する順番が違う。放任する順番が違う。…そんな…姿勢が、為政者の横暴を許している。…差別発言をした人に対して、「それは差別だ」と指摘するのに、なぜ腹を括る必要があるのか。(P219)

○「偉い人」の定義は人それぞれで、そもそも、民主主義国家における政治家は、自分たちの代わりに政治の仕事をしてくれている人であって、決して「偉い人」ではない。だが、このところ、俺は偉いんだぞ、と叫びながらこっちに向かってくるのではなく、そう叫びながら逃げていく姿ばかりが目に入る。そんな社会を活写したところ、こんな一冊に仕上がった。(P259)