とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

頼朝と義時

 「鎌倉殿の十三人」を毎回視聴している。大河ドラマを観るのは久し振りだ。けっこうおもしろい。やはり三谷幸喜の脚本が抜群に面白い。大泉洋小池栄子らの演技もこのドラマを盛り上げる。源平合戦から鎌倉期に至る歴史は、歴史の授業で習いはしたものの、出来事を年代順に追うばかりで、少しも頭に残ってはいない。大河ドラマは面白いが、どこまで事実か、よくわからない。伊藤祐親の娘の八重が義時の思い人という設定だが、ネットで調べると、どうやら史実とはかなり違うようだ。だがドラマ終了後の史跡紹介では、あたかも義時と八重の中を真実かのように伝えていた。やはり信用できない。そこで本書を読んでみた。やはり面白い。

 頼朝の誕生から承久の乱後、義時が死ぬまでを年代を追って記述していく。事柄ごとに歴史家の主張なども織り込みながら、筆者の見解も著す。また、頼朝と義経の対立や幕府と朝廷との虚々実々の駆け引き、執権職に対する見解、豊穣政子の演説に対する評価なども実に興味深い。

 とりあえずこれで「鎌倉殿の十三人」を最後まで予習できたのではないか。あとは気楽に「面白く脚色しているなあ」などと思いながら、楽しく大河ドラマを観ることにしよう。いや、久々に面白いドラマだ。

 

 

○伊藤祐親は一族の広がり…や婚姻関係の広がり…を考慮すると、伊豆で屈指の有力在庁と考えられる。平清盛率いる平家一門との関係も良好だっただろう。/これに対して北条時政は、感触も得ていない弱小武士である。平家一門との直接的な結びつきもなかったと思われる。…伊藤祐親のような勝ち組はあえて頼朝という大穴馬券を買おうとはしない。だが北条時政は違う。このままではジリ貧だという危機感から、賭けに出たのだろう。(P30)

○だが、大きな誤算が生じた。二位尼安徳天皇を抱いて入水…。しかも三種の神器のうち、宝剣と勾玉を持っての入水だったという。勾玉は回収されたが、宝剣は海の底に沈んだ。…頼朝が長期戦にこだわったのは、決戦によって生じる右のような不測の事態を恐れたからである。義経が平家に降伏の機会を与えず性急に攻撃した結果、頼朝の終戦構想とはまったく異なるかたちで源平合戦終結した。このことが頼朝と義経の対立の伏線となる。(P134)

義経が頼朝への反抗を決意したのは、現在の地位を維持するためと考えられる。義経は京都で後白河院に奉仕し、頼朝から自立した存在となっていた。頼朝はこれを許さず、鎌倉に下り、自らに従属することを求めたのである。直属兵力や独自の経済基盤に乏しい義経は、京都を離れ後白河の後ろ盾を失えば、源氏一門の一人、一御家人に転落する。それは、平家討伐の英雄である義経には耐えられないことだったのだろう。(P142)

○一般に時政は、鎌倉幕府の初代執権に就任したとされる。よく知られているように、時政以降、歴代の北条当主は執権に就任するが、同時代史料で時政を「執権」と表現したものはない。この時点で「執権」という幕府の役職が成立していたとは考えられない。…そもそも時政の権限と、泰時(義時長男)以降の執権の権限は異なる。泰時以降の執権は、将軍を補佐する常設の役職だが、時政は幼少の実朝の権限を代行しているにすぎない。鎌倉殿の代理だから、その権限は絶大だが、実朝が成長すれば返さなくてはならない一時的な権限である。(P231)

○頼朝の御恩に報いるために今こそ戦え、というのが政子の主張である。…ただ、政子の演説には一種のトリックがある。本来、御恩と奉公の関係とは、鎌倉殿と御家人という個人対個人の関係を指していた。そうすると、源氏将軍が断絶した時点で、御恩と奉公の関係は消滅してしまうことになる。…鎌倉殿頼朝から受けた御恩を「鎌倉殿に返す」という論理を使えない政子は、代わりに頼朝から受けた御恩を「幕府に返す」よう主張した。政子は、特定個人への奉公を組織への奉公にすりかえた。(P295)