とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ポリコレの正体

 女性差別等がしっかり解消されない中で、LGBT等に対する施策ばかりが進んでいく状況には違和感を持っている。まるでLGBT施策に取り組んでいれば、女性差別問題のみならず、障害者や生活困窮者の問題等も解消されるかのようだ。「障害者」と言えば、「害」の字を嫌い、「障碍者」とか「障がい者」と記載する傾向も気にいらない。言葉狩りをしても実態は良くならない。どうしてこうした風潮が生まれたのか。本書にはその原因や状況改善への糸口などを期待した。

 最初のうちは、同じような認識かなと思って読み進めた。だが日本よりもアメリカの状況の紹介が続く。そしてトランプ大統領やブッシュ元大統領などの共和党によるポリコレ批判が紹介され、ポリコレを主導しているのは新左翼の源流であるマルクーゼを中心とする「フランクフルト学派」だと指摘する。うん? これって、右翼本なのか?

 と、第2章では森喜朗の女性蔑視発言を擁護する。さらに第3章ではBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動を批判。やはりその源流にはマルクーゼ直系のラディカリズムがあると指摘する。そして「第4章 LGBTを”弱者ビジネス”にしようとする人々」では何と、杉田水流の生産性発言や小川榮太郎の杉田擁護論文までも擁護する。いや、言わんとするところはわかる。だが、それぞれの表現が全然ダメなのは事実だし、何より、彼らの思想や言動に対して批判的だった者が、彼らのあまりな言動に対して、ついに怒りの牙を剥いたということではないのか。これを「言葉狩り」と言ってしまうのは、事実を矮小化しているように感じる。

 で、「ポリコレの正体」とは何なのか。結局、筆者は、新左翼活動家の扇動と、LGBTというキャッチーな言葉に乗ってしまったマスコミのせいだと言うのだが、本当にそうだろうか。それが皆無とは言わないが、それらの扇動や報道を受け入れる国民感情があるのではないか。そしてたぶんそこには、昨今の格差の拡大や貧困化の進展が底流にあるはず。本書にはそうした分析を期待した。そして見事に裏切られた。櫻井よしこも酷いが、福田ますみの名前も覚えておこう。

 だが、ポリコレについて、そして新左翼活動についてしっかりと調べていることは評価していい。一面的な見方だとは思うが、本書で初めて知った事柄も多かった。ウクライナ情勢なども加えて、まさに世界は今後どう移り変わっていくのだろうか。ポリコレも嫌だが、「共産主義=悪」という認識も行き過ぎだと思う。冷静に世界を見る目と知性こそが必要だ。

 

 

○「誰もが不当に差別されることのない、公平で平等な社会を作ること」は、近代市民社会における人類共通の理念に違いない。しかし、その公平や平等、多様性を無前提に人々の強要し、結果の平等だけを唯一の善とする極度にフラットな社会が完成するとすれば、それは立派な全体主義となる。(P25)

○「米国では多様性が重要なキーワードになっていますが、内実は、肌の色や民族の違い、性的少数派など表面的な多様性を尊重するにすぎず、思想的多様性については、一切許されません。結局のところ、左翼のプロバガンダにしか許されない状況を、多様性とはとうてい言えないと思います」(P42)

○ポリコレの特徴として、表面的な言葉の言い替えに終始することで、むしろ本質的な問題を覆い隠してしまう欠点がある。つまりポリコレは、本音を隠して偽善的にふるまうことを強いるのだ。…結局、一部の左翼活動家だけがポリコレを押しつけ、多くの国民はそれに不満を持っているが、マイノリティの擁護や差別の解消という、それこそ「名目上の政治的正しさ」には抗えず、仕方なく従っているというのが実情なのではないか。(P62)

○日本の場合、…組織的な迫害も目立った差別もなかった。むしろ彼らは、日本の伝統文化や芸能の中でごく自然に包摂され、…異彩を放つ存在であった。…そうした寛容な社会に、突如、欧米から黒船のごとくLGBTなるものが上陸。次々と名乗りを上げたLGBT活動家は、日本社会にもLGBT差別が存在すると主張して…対立軸を「人工的に」構築し…加えて…こうした活動を強力に後押したのがマスコミである。(P183)