とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

小中高は「教育」。では、大学の講義はどうあるべきか。

 昨年から大学で非常勤講師を始めた。1年が過ぎ、今年が2年目。前後期あるので、2年目前期の今は3回目の講義になる。前年まで講義を担当していた方とは経験も経歴も違い過ぎて、とても私には同じような講義は無理なので、イチから講義を組み立てた。そのため、昨年前期は講義内容を作り、こなすだけで精一杯だった。だが、その経験を参考に、後期はある程度手直しをして講義をした結果、一応、満足のいく内容にはなった。今年は昨年度の経験をもとに一部順番を入れ替えたり、講義内容もさらに充実させた。内容的には今の私の実力からすれば、これが限界、充分な内容だと思う。

 だが、講義の仕方、話し方などの点では、いまだに満足を行く講義ができない。パワーポイントで講義内容や資料を組み立て、プロジェクターなどを使って講義を進めていくが、講義の冒頭こそは少し学生の姿を見て雑談をするが、講義内容に入ると、パソコンに首ったけとなってしまう。伝えたい内容はなるべくパワーポイントに書き込み、またはそこからリンクしてプロジェクターに映し出す。それだけでは映し出した画面のどこを説明すべきか忘れてしまうので、手元に講義内容をメモした資料を置き、それを確認しながら話を進めていく。

 パソコンを見、講義資料を見て話をしていると、学生の顔や姿を見ている余裕がない。びっしりと講義内容を話しているのも辛いだろうと、少し雑談もしようと思うが、話すべき雑談が出てこないので、結局、手元の講義資料に雑談内容もメモしておく。するとそれを読むために顔が上がらない。結局、講義最初に学生の姿を見て、講義の最後に学生の顔を見る。それ以外はパソコンや手元資料に意識が向いている。講義途中に学生の姿を見る余裕を持ちたいと思うが、なかなかそういうわけにいかない。

 結局これは私自身の能力や経験の問題で、もう少し回を重ねれば多少の余裕も出るのかもしれないが、そもそも私の講義内容はどれくらい学生たちに伝わっているのだろうか。彼らは私の講義内容をどれだけ理解しているだろうか。講義終了後には、成績評価をしなければいけないので、一応、試験を行うが、どういう試験内容にすれば理解度が測定できるのかもよくわからない。友人が担当している科目では、毎回授業後に小テストを実施したと聞いたが、私の講義ではそれはなじまないし、面倒でもある。

 別に開き直ったわけではないが、そもそも理解してもらう必要があるのかという気もしてきた。高校までは、授業で教える内容は教師であれば当然、十分に理解をしている内容で、それをいかに学生たちが理解できるように教えるか、ということが問題であり、それこそが教師の技量や能力として問われることになる。だが、私が講義をするような内容は、どこまで学生が理解する必要があるのか。

 履修登録をしたから講義には出るが「大して面白くないし興味もない」という学生もいるだろう。「興味がない」「理解しようと思わない」学生に理解を求めてもしょうがない。もちろん「理解したい」という意欲はあるが、講義内容が未熟で「理解できない」ということは避けなければならない。でも、私の講義内容は「理解しよう」と思えば「理解できる」だけの内容になっているはずだ。話が拙くても、必要な情報はすべて講義資料として配布しているので、講義後にでもそれを読んでもらえば、伝えたかった内容は全てそこに書かれている。だとすれば、講義をする意味は何だ。どこにある?

 もちろん講義では配布資料をそのまま読むだけではなく、私なりに理解しやすいように整理し、解説をしていくので、ただ資料を突き付けられるよりは講義を聞いた方が理解しやすいだろうと思っている。だが重要なのはそれではない。私が講義で伝えたいことを私なりに整理して資料を作成して講義をする。それを聴く。私が伝えようとすることを理解しようとする。そのことがすなわち受講者の「理解」につながる。私が話す内容を理解するだけでなく、それ以上に調べ、勉強し、私以上に理解を深める。そうしたことが可能ではないか。

 つまり、大学の講義は「教育」ではない。少なくとも小中高のような「教えられる」教育ではない。教師の講義を聴講することで触発され、自ら学ぶ。そういう講義が求められるのではないか。3回目にしてようやくそういう境地に至った。まだ数年はこの講義も続けるだろうから、これから先、また違う境地に至るかもしれないが、まずはこういう気持ちになった。そして少し楽になった。さあ今週もまた、私が調べ、整理した内容を学生たちに伝えよう。その姿勢に触発され、少しでも興味を持って自ら学ぼうとする学生が一人でも増えるといいなあと思う。