とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

過剰可視化社会

 SNSの流行やコロナ禍において、情報を「見せる」ことで国民を操ろうとする傾向や、自らカミングアウトすることで安心を得ようとする傾向が強まったという。そうした状況を「過剰可視化社会」と批判し、人間本来の安心・信頼のある社会を創っていくためには、やはり昔ながらの身体的な接触、対面での会話等が不可欠だとする。当たり前といえば当たり前。だが、今の40代以下の人々にとってはそうでもないのだろうか。確かに、情報に過剰に左右される傾向は強まったような気もする。マスコミが煽っているだけかもしれないが、それが次第に日常になっているのかもしれない。ベンヤミンドゥルーズなどを引用しながら、これらのことを語るのだが、そこまで言われなくても、古い人間からすれば当たり前のことが書かれているように思う。

 後半は、臨床心理士の東畑開人、哲学者の千葉雅也、人類学者の磯野真穂との対談が収められている。そもそも対談は話が拡散し、かえってわかりにくいことが多いのだが、本書でも同様。それでも、下に引用した「貨幣は文脈を無視する媒体」という指摘や「視覚や聴覚も言語に汚染されている」といった知見は興味深い。「慣習主義」というのは、今の若者の保守性を表わしているのだろうか。もっともそれが必ずしも間違っているとは思わない。もちろん「慣習」が万能ではないのは言うまでもない。

 

 

○マイノリティがカミングアウトできる社会になったことは…よいことですが、しかし「カミングアウトできない状態の人」への配慮を忘れるなら、一番苦しい状況にある人を不可視化するだけに終わるでしょう。…可視化することそれ自体を目的視し、カミングアウトが増えれば増えるほど多様性に近づくのだと錯覚する姿勢は、実は「誰もが生きやすい社会」につながるどころか、分断をむしろ悪化させる。(P10)

○お金(貨幣)とはいわば、究極の「文脈を無視する媒体」ですよね。市場でなんでも換えられるというタテマエになっているから、それぞれの個人がいま何を必要としているかといった背景を考慮することなく、とにかく配れば一応は相手を「ケアした」ことにできる。/しかし本来、その人が生きがいを見出して働いている仕事を「不要不急」などと認定し、「カネをやるからいいだろう」として休業を求めるのは、大変失礼なことでしょう。(P61)

○視覚という感覚は、実はかなり言語に汚染されているのですね。聴覚が言語から影響を受けることは、英語を学ぶ前は「@#%!?」としか聞こえなかった…会話が、学んだ後なら文節可能な文章として聞こえてくることからわかるでしょう。そして視覚もまた、見ているもの自体を直接捉えているようでいて、実際には「赤という色があるよ」といった言語上の概念に規定されています。(P95)

○【東畑】恐怖は短期的にしか機能しません。…恐怖で他者を動かして安全を確保しても、次第に不信感は募り、…より強い恐怖による支配が必要になります。/このループから抜け出ないといけないのですが、そのためにはまず先に安心感や信頼が必要になる。そうした「最初の一歩」を踏み出すためには…まずは誰かと一緒に「居る」ことで十分なのかもしれない。対面の場で、身体を同じ空間に置いて、雑談が始まるのが大事なように思います。(P140)

○【千葉】慣習の問題でいえば、地域や場所、文脈によって異なるわけですから、その複数性を認めて、でも結局は無根拠だということをつねに自覚して社会を運営する必要があると思います。/そこに究極的な合理性を求めると原理主義になるから、私たちの振る舞いは偶然的で大した意味もないことに規定されているという、ある種の「つつましい自覚」を持つ。そうした態度が、社会を変に硬直化させないために必要だという意味で慣習主義はありえると思うんですよ。(P167)