とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ほんとうの多様性についての話をしよう

 大きな字、わかりやすい表現。借りる前から薄々は想定していたことではあるが、ひょっとしてこれは子供向けの本だったかもしれない。「ドイツ人の父親と日本人の母親の間に生まれ、23歳までミュンヘンで過ごし、その後20年以上に渡り日本に住んでい」(P7)るという筆者。「幼い頃から母とは日本語…で話し…両方の文化に触れながら育」ってきたが、容姿はドイツ人のように見える。そんな筆者が経験してきた様々な経験をベースに、ハーフ(ダブル、ミックス)として「多様性」への感じ方、考え方を綴ったもの。言わんとすることはよくわかる。

 一方、「多様性」と言えば、性の多様性や障害者の存在、また個々人の考え方の違いなども「多様性」だと思うが、それらについては最終章で断片的に触れられるだけで物足りない。下に引用したが、保守的な考え方をすることを「多様性のある社会への変化を妨げる」としていることには多少疑問を感じる。それもまた多様性ではないのか。そう考えると、多様性とは、違いを認めるだけでなく、「他者を尊重すること」ではないかと思う。だから「『誤解や衝突があっても当たり前。長い時間をかけて、ゆずれるところとゆずれないところをおたがいに交渉していこう』という心がまえを持つことが現実的」(P119)という意見には賛成。

 筆者は「違い」に敏感だろうが、それでも筆者自身の思い込みも正直に吐露している。その点は共感を持てる。だが、少なくとも現在の私にとっては、同じ日本人との考え方の違いに悩むことの方が多い。「多様性」と声高に訴えるのではなく、「他者の尊重」をこそ第一に考えた方が摩擦の解消には早いのではないだろうか。

 

 

○世間には「国籍は一つのはず」「人間のアイデンティティは一つのはず」「複数のアイデンティティや国籍があるのはズルイ」という共通認識があります。/でも複数の国にルーツを持つ当事者からすると、その認識は理不尽で窮屈に感じます。/このように「当事者から見る多様性」と「国のマジョリティが考える多様性」の間には、ときに大きな隔たりがあります。(P16)

○政治家もよく「われわれ日本人」という言葉を使います。/でも政治家の言う日本人にほんとうに私も入っているのかなと、日本国籍がありながら不安に感じることがあるのです。なぜなら話の文脈から「外国に縁のない日本人だけを指しているのだろうな」と分かるからです。/「われわれ日本人」という言葉が、人を排除する方向で使われるのではなく包括する方向で使われるようになってほしい。(P74)

○新しく外国人が日本にやってくることによって、双方のカルチャーショックは避けられません。…話がかみ合わなかったり誤解が生じたりしたときに「文化が違うのだからやっぱりたがいに分かり合えない」とあきらめるのではなく、「文化が違うのだから、誤解や衝突があって当たり前。長い時間をかけて、ゆずれるところとゆずれないところをおたがいに交渉していこう」という心がまえを持つことが現実的だと思うのです。(P119)

○人間はまわりからの影響を受けやすいことを意識する。それが多様性への第一歩ではないでしょうか。/帰国子女だからモノをハッキリ言いそう、ハーフだからバイリンガルなはず、女性だから料理が得意なはず……人の頭の中にはたくさんのイメージがあります。/幼児者が「僕は違う、私は違う!」と声を上げるまでもなく、周囲が「自分は何かのイメージに影響されていないだろうか」と考えることが、多くの人の生きやすさにつながると思います。(P153)

○ヨーロッパでいう「多様性を認めること」は…今までしてこなかったものを積極的に進めることを指します。/これに対して日本には「昔ながらの…生き方をする女性も多様性の一部」という考え方があります。これが日本とヨーロッパの圧倒的な違いだと私は感じます。…従来の古風な生き方を多様な生き方の一つと見なしてしまうと、結局は、多くの人が保守的な生き方を守ることに固執してしまい、多様性のある社会への変化を妨げることになるのではないでしょうか。(P179)