とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

撤退論

 4月に本書が発行された時、すぐに読みたいとは思わなかった。「撤退」という言葉に嫌悪を感じた。10年ほど前なら特に違和感なく手に取っただろう。だがそれからだいぶ時代が変わった。いや単に私が定年退職し、毎日、家で過ごすようになったからだろうか。それで思い切って手に取った本書には、これまでの内田本では見なかった新しい筆者が名を連ねていた。堀田新五郎、青木真平、後藤正文、渡邉格・麻里子、仲野徹、兪炳匡。このうち、青木真平は現在、東吉野村に居住し、渡邉夫妻は智頭町でパン屋やビール醸造などを手掛けている。

 また、理系の研究者や医師の執筆が多いのも特徴的だ。岩田健太郎、仲野徹、兪炳匡など。なかでも仲野徹の理系・文系論は面白い。そして、最後に平川克美が、自身の事業上の失敗と撤退、そして現状を吐露する。これがまた興味深い。撤退とは単に人口減少局面だからとか、経済力や国力が低下してきた、ということではなく、現状を見据え、これまでとは異なる道を選び、新たな歩みを進めるということだ。

 そういう意味では私も既に職業人から撤退し、年金生活、そして地域生活者として、新たな生活を始めて1年余が経とうとしている。週一で大学講義もしているので、完全に職業人から撤退したというわけではないかもしれないが、仕事第一の生活から脱してみると、新たに見えてくる風景がある。「撤退」。それは人生の中で何度か経験してもいいのかもしれない。「撤退」とは転身であり、新たなチャレンジで、そして何より大きな勇気を必要とする人生の選択だ。

 

 

○【堀田新五郎】持続不可能なシステム、そこから撤退すべきシステムを持続させようとするとき、政治家たちは「神話」を語り始める…「皇軍不敗」「原発安全」「百年安心」「成長戦略」「地方創生」「復興五輪」、これらが神話的言辞であることを皆薄々感じながら、しかし公にはこうした言説が流通し続けるのである。ここにメスを入れない限り、知性は慣性に負け続けるであろう。(P28)

○【青木真平】生きづらさを抱えていることが、逆説的にその人のなかに生き物としての部分がきちんと息づいていることを示しているのです。しかし生き物が生きづらい社会には、最終的に何が残るのでしょうか。人が社会人として生きていこうとすればするほど、社会自体は持続不能なものになっていきます。…持続可能性というならば、社会人としての振る舞いを抑制し、自分の内外の生き物が生きやすい環境をつくること。(P126)

○【後藤正文】僕たちは常に、資本や産業や経済の視点から考えることが習慣化しすぎていて、それによって追い詰められているところがあるんだと思います。…常に、衰退や縮減という言葉は、経済的な思想とセットだと思います。…僕らがクールだと感じること、豊かだと思うこと、素敵だと思うこと、欲望に駆られること、それらのほとんどが何らかの思想の下敷きにされてはいないか。その何かが、僕たちの生きづらさの一因となっていないか。(P134)

○【仲野徹】理系の場合、問いを立てる段階で、解決可能でありそうだ、ということがまず前提とされる。…それに対して文系の場合は、より複雑な思考により、おそらく正解がないような問題にも挑戦していくことが可能だ。…ノーベル賞学者である偉大な免疫学者ピーター・メダワーは、「政治を可能性追求の術とするならば、研究は解決探求の技である」という言葉を残している。政治を文系、研究を理解に置き換えても意味が通じそうだ。(P200)

○【平川克美】事業からの撤退は単に、自分がチャレンジしていた世界から敗走するということを意味するわけではなかった…一つのチャレンジからの逃走は、もう一つの別なチャレンジを意味していたということである。重要なのは、撤退は、単に行くか戻るかと言う二者択一を意味しない。そのような二者択一を自分に迫っていた世界観とは、全く異なる世界観へのパラダイムシフトを意味しているということである。(P264)