とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

人はなぜ物語を求めるのか

 「人はなぜ物語を求めるのか」? それは、人がそういう形式で認知するようにできているから。一言で言ってしまえば、そういうことだが、本書では、多くの事例でもってそのことを示していくとともに、物語化することで安心し、納得してしまうことに対して警鐘を鳴らす。その物語は、常に正しいとは限らない。いや多くの場合、納得しやすいストーリーを真実だと思い込んでしまう。

 「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人、渡邊博史が後日「生きる屍の結末」という本を執筆している。そこで示される事実が興味深い。被告は冒頭陳述では、自分がこの事件を起こした理由を「人生格差犯罪」と名付け、成功者への妬みが原因だった、と説明した。ところが数ヶ月後の最終陳述ではこれを否定し、被虐鬱による犯行であると自らの行動を分析し説明をしている。この間には高橋和巳の著作を読んでそのことに気付いた。人は自らのことですら、自分が理解しやすいストーリーで語ろうとするのだ。

 第3章の、「物語」と「道徳」の関係も興味深い。「べき」論がしばしば他人を責め、また自分を責めてしまう。しかしそれは無根拠な「べき論」であり、誤信念である場合が多い、と言う。そして我々はしばしば「『自分が何を知らないか』を知らない」。過去の経験や気持ちよく感じるストーリーを真実と思い込み、それが自らを苦しめる。

 結局、人間はさまざまな出来事や経験を物語形式で理解してしまう存在である。そしてそれはしばしば誤った理解へ導き、自分自身を苦しめたりする。そのことをよく理解し、自らで作った物語で自分自身を苦しめたり、他人を押しつぶしたりしないようにしよう。そんなことが書かれている。

 それにしても、これが中高生向けのプリマ―新書であることに驚く。大人でも難しいくらいだ。次はこの続編、「物語は人生を救うのか」を読んでみよう。

 

 

○世界をストーリー形式の枠組で認知・解釈してしまう傾向は…反射的・受動的な性質であり、ときには、生きていくのに必要なものでさえあります。…けれど…つねに「よい」ことであるとはかぎりません。/生きていくうえでいろんなことの原因・理由がはっきりしているほうが、一見ラク…で、僕たちはその説明についすがってしまいます。…「説明が正しいかどうか」より…も、僕たちはともすると「説明があるかどうか」のほうを重視してしまう。ストーリーでそこを強引に説明してしまうことがあるのです。(P56)

○<泥棒は己の行為を貧しさのせいにし、詩人は美のため、科学者は真実のためと理由づけ、<物語化>する。>…僕たちは…自分の人生物語の主人公として、自己をイメージしています。それだけでなく、意識のなかにあるほとんどすべてのものは、<物語化>されてしまいます。…なにか事件を起こした当事者も、それを見ている目撃者も、それを裁く裁判官も、事件のなりゆきをストーリー化します。そうすると納得感が出るのです。(P126)

○人間の行動を、ときには、行動した当人ですら、自分がすでに持っているストーリーのパターンで説明してしまいがちだということ。これはたいへん興味深い現象です。人は、自分の行動の動機を説明するのにも、ありもののストーリーを借りてしまう。/「自分のことは自分がちゃんとわかっている」/というのは、錯覚にすぎません。(P138)

○人間は…「自分は自分の意志に従って環境を変えることができるし、そうするべきである」という一般論に、しばしばとらわれてしまいます。いわば「コントロール幻想」です。…じっさいには、他者や環境や状況は、いつでも操作できるとは限らない。…たとえ対象が自分が望んだとおりの行動をしたとしても、それはただの偶然か、その対象自体の自発的行動の結果であって、こちらの働きかけの結果ではない、ということだってよくあります。(P169)

○僕たち人間は日常、世界をストーリー形式で認知しています。そのとき、僕たちはストーリーの語り手であると同時に読者であり、登場人物でもあるのです。物語る動物としては、自分や他人のストーリーに押しつぶされたり、自分のストーリーで人を押しつぶしたりせずに、生きていきたいものです。(P212)