とんま天狗は雲の上

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無と意識の人類史

 久し振りに広井良典を読んだ。「人口減少社会という希望」「グローバル定常型社会」「創造的福祉社会」の総括的な著書として書かれたが、それらからどう発展したか。正直、よくわからない。これまでも同じことを繰り返しているような気がする。だが、改めてタイトルを見れば「人類史」と書かれている。つまり、未来を語るのではなく、過去を振り返り、今後を夢想する。そういう本として捉えればいいのか。

 これまでと新しい知見としては、「無」と「死」に注目していること。そして今後訪れるであろう「第三の定常化」は「有と無の再融合」と呼べるような世界観が重要だという。そして、こうした発想を得た要因として、認知症が進む母親の様子を語る。わからないではない。だが、そうだとして、実際はどうなるのか。いつなるのか、どうやってなるのか。よくわからない。具体的なことは書かれていない。

 あくまで「人類史」として語る。前の定常化は枢軸時代、すなわち紀元前5世紀頃に起きている。とすると、我々が第三の定常化を認識するのは、数千年後か。それを今語ってどんな意味があるだろうか。4月には新刊が出されるという。次はそれを読んで、改めて広井良典の思想を考えてみよう。広井良典はどこへ行くのだろうか。

 

 

○狩猟採集段階における成熟・定常化への移行期に「心のビッグバン」が生じ、農耕社会における同様の時期に枢軸時代/精神革命の諸思想(普遍思想ないし普遍宗教)が生成し、両者はいずれも「物質的生産の量的拡大から精神的・文化的発展へ」という内容において共通していたと考えられるのではないか。/そして、現在が人類史における第三の定常化の時代だとすれば…根本的に新しい思想や価値原理が生成する時代の入り口を私たちは迎えようとしているのではないか。…ではそうした新しい思想とは何か。…それは「地球倫理」と呼べるような思想ないし世界観ではないか(P81)

○地球倫理とは、①地球資源・環境の「有限性」を認識し、②地球上の各地域における風土の相違に由来する文化や宗教の「多様性」を理解しつつ、③それらの根底にある自然信仰を積極的にとらえていく/ような考えをいう。(P91)

○人間を含む「生命」の歴史は…「共生」と「個体化」のダイナミックかつ重層的な展開として把握することができるのではないか…「共生」は…“「共生」の外部“に対する排他性や敵対性を潜在的に含むものであり…それを克服する一つの通路として「個体化」は…異なる集団の間に、あるいは集団を超えて”橋を架ける“役割を果たしうる…、以上のような展開の、ある意味で”究極“のレベルに浮かび上がってくるのが「地球倫理」であると言えるのかもしれない。(P149)

○枢軸時代/精神革命期に地球上の各地…で生成した普遍思想ないし普遍宗教…の中身は(それらが生まれた地域の風土的環境を反映して)互いに異なる、多様なものでありつつも、全体としては、「無」(そして死)が何らかの意味で抽象的な概念として把握されるに至ったのが枢軸時代/精神革命の特徴と言えるだろう。(P196)

○「人類史における第三の定常化」の時代としての現在そして今後においては、近代社会における「無(あるいは死)の排除」に代わり、「有と無の再融合」と呼べるような世界観が重要な意味をもつことになる…すなわちそれは…(1)「有」と「無」を連続的なものととらえ、(2)「無」を、「有」を生み出すポテンシャルないしエネルギーをもつものとして理解し、(3)「有」(あるいは存在)の内部の事象についても、そこでも宇宙、生命、人間といった様々な次元を連続なものとして把握し、(4)以上のような認識を踏まえ、「個人を超えて、コミュニティや自然(生命、宇宙)ひいては有と無の根源とつながる」方向を志向する/という考え方を指している。(P232)