とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

夢よりも深い覚醒へ

 社会学者・哲学者(あえてこう呼ばせてもらおう)の大澤真幸による3.11後初めての社会・哲学書。3.11とは何だったのか。我々はあの出来事に何を感じたのか。それによってどういう可能性が開かれたのか。そう、大澤氏はあの出来事に夢を破られ、こちらに帰るのではなく、夢の向こう側のさらに深い覚醒へと人々を誘う。そのための哲学・倫理学・可能性を思考し示している。
 序で「いきなり結論」を書く。「脱原発をめざす」を主張する。なぜか。どのようにしてか。以後、それに向けて思考を展開する。第1章では、破局に当たって「第3の審級」が撤退してしまったことを指摘する。第2章では、原子力が我々日本人にとって「神」であったことを示す。オウム真理教との類似も示しつつ、「アイロニカルな没入」の結果、世界有数の地震国ながら世界第3位の原発を作ってしまった。
 この状況を打開するためには、ロールズによる正義論では不十分である。未来の他者を呼び寄せる必要がある。だがどうやって。ここに「灰を被ったノア」を呼び寄せる。終末論に命を吹き込む「体験のレベル」が必要だ。未来の「他なる可能性」を見せつけるもの。章末でそれは自身の中にと書く。
 「第4章 神の国はあなたの中に」はヨハネとイエスを比較し、また「江夏の21球」を振り返る。江夏は優勝する自分を知っていた。だからこそあの局面でスクイズをウェストできた。それは練習の賜物ではない。結果を知っていたのだ。同様に、神の国はすでに到来した。だが、その言葉を残し、イエスは死んでいく。神への不審・不在を訴えつつ。神の無能性を暴露して。その時に私たちが取るべき行動は。それは神になり変わって、人間が神を救うこと。人間は神を救うことにおいて自分自身を救うことができると訴える。
 第5章は「階級」をめぐって考察する。この章はかなり難解である。おそらく、「階級的」プロレタリアートこそが、「灰を被ったノア」の役を果たすと言っている。ただ、そのためにはプロレタリアートを従来の労働者階級から解き放ち、資本主義社会の中で何者かになることを阻まれている者たち、「剥奪」された者たちと一般化する。それが誰か具体的には書かれない。原発ジプシーという言葉もあるが、我々自身のような気もする。また、「無知な指導者」「懐疑する指導者」が第3の審級として機能するとも言うが、具体的なことはわからない。
 「結 特異な社会契約」では、合議のための委員会を特異な形で設置することを提案する。「第三者の審級」をかませた形での委員会。だが、思考実験としてはありうるのかもしれないが、現実には不可能だろう。
 こうして唐突に本書は閉じる。3.11後、その衝撃の中で筆者が考えたこと、思考を重ねたことが書き著されている。そのいくつかは雑誌等に掲載したものであり、全体としての調和には至っていないのだと思う。しかしそれでも3.11後早い時期に吐露しておきたいという気持ちからの刊行なのだと思われる。
 われわれはまだまだ多くのことを考えあぐね、結論が見られない。その中でまさに「無知な指導者」がまるで3.11はなかったかのような無謀な決断ばかりを続けているように感じる。「ショックドクトリン」という言葉も紹介されているが、まさに我々は今、考えねばならないし、わからないまでも行動しなければいけないのかもしれない。そんな勇気を与えてくれる一冊だ。

夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)

夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)

●3.11の大津波原発事故を目の当たりにしたとき、われわれは、それまで可能だと信じていたことが不可能であり、逆に不可能だとされていたことが可能であることについての直感をもったのではないか。つまり、3.11の出来事には、可能性と不可能性とを弁別する座標軸、われわれの日常の生が当たり前のように受け入れてしまっている土台そのものを揺り動かすものがあったのだ。(P17)
●日本人は、敗戦したとき、アメリカの科学・技術に圧倒された、という感覚をもったに違いない。日米のこの点での差異を最も強く印象づけたのが、言うまでもなく、原爆である。こうして打ちのめされた自尊心を回復するには、日本としては、どうしたらよいか。科学・技術の象徴であるところの原子力を味方につけ、わが物とし、それを自由に使いこなすことこそ、敗戦によって失われた自尊心を取り戻す、最も確実な方法であろう。(P84)
原発事故の前には、論理的には事故の可能性があることを知っていたが、それが、ほんとうに起きるとは信じていなかった。だが、その破局が起きてしまえば―つまり破局事後に立てば―、破局自体が現実になるだけではなく、破局が、もともと―過去においても―ずっと現実的であって、いつ起きても不思議ではないような仕方でずっと存在していた、ということに気づかされるのであった。(P139)
●未来の他者といかにして連帯できるのか?・・・それは原理的には可能なはずだ。・・・未来の他者は、ここに、現在に―否定的な形で―存在しているからである。・・・「現在のわれわれ」は、説明しがたい悲しみや憂鬱、言い換えれば、この閉塞から逃れたいという渇望をもっているだろう。その悲しみや憂鬱、あるいは渇望こそが、未来の他者への反響、−未来の他者の方から初めて対自化できる心情―なのであり、もっと端的に言ってしまえば、未来の他者の現在における存在の仕方なのだ。(P148)
●ヨブのときのように、神の無能性が暴露されてしまったとき、あるいはキリストの場合のように、神自身が十字架の上で死んでしまったとき、神の国に実質を与える責務はすべて人間に課せられることになる。そうすることで、神が人間を救うのではなく、人間が神を救うのだ。人間は、神を救うことにおいて自分自身を救うのである。(P192)