とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

おおきなかぶ、むずかしいアボカド

 村上ラヂオを後ろから逆に読んでいる。村上ラヂオ2は2010年3月〜2011年3月までの1年間に「anan」に掲載されたエッセイを収録。エッセイだからということもあるけれど、肩に力が入っていない文章を読むのは心底ほっとする。
 「おおきなかぶ」はロシア民話をとっかかりとしたエッセイ。むずかしいアボカドは、アボカドの熟れ具合を完璧に言い当てるフルーツ・スタンドのおばさんの話。その他にも「野菜」の話が多い。村上春樹ってベキタリアンだったっけ。でも肉より野菜の方がやさしい気持ちになれる。競うこともなく、ただ待っているというイメージ。
 もちろん村上春樹も日本の(いや世界かな)将来に対してすごく不安や不信感をもっているようだ。システムに対峙する側としての生な個人に対する共感と抗いがたい運命の前で不可抗力な生への諦観。だがその上でなおかつ、それを積極的に受け入れて生きていくことへの楽観。でも難しいことではない。ただ自然体で生きていく。村上春樹を読むとそういう勇気が湧いてくる。ホント慰められ、癒されます。

おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2

おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2

●「夢を追わない人生なんて野菜と同じだ」と誰かにきっぱり言われると、つい「そうかな」と思ってしまいそうになるけど、考えてみれば野菜にもいろんな種類の野菜があるし、そこにはいろんな野菜の心があり、いろんな野菜の事情がある。ひとつひとつの野菜の観点からものごとを展望してみると、これまでの自分の人間としての人生っていったい何だったんだろうと、つい深く考えてしまうことになる(こともある)。(P13)
●会社って「問題があるもの」が好きじゃないんだなとつくづく思う。不揃いなもの、前例のないもの、発想の違ったものを、それはほとんど自動的に排除していく。そんな流れの中で、個人として「腹のくくれる」社員がどれくらいいるかで、会社の器量みたいなものが決まっていくような気がする。(P101)
●悪魔も、青く深い海も、ひょっとしたら外側にではなく、僕らの心の内側にセットされたものなのかもしれない。あのどこまでも深い海穴のことを思い出すたびに、そう思う。それはいつもどこかで潜在的に、僕らが通りかかるのを待ち受けているのだ。そう考えると、人生ってなんだかおっかないですね。(P105)
●僕は人というものは年齢相応に自然に生きればいいし、無理して若作りするような必要はまったくないと考えている。でも同時に、無理に自分をおじさんやおばさんにしてしまう必要もない。年齢に関していちばん大事なことは、なるべく年齢について考えないようにすることだと思っている。普段は忘れていればいいんです。(P110)
●いろんな権威を中心に据えた枠組み。社会的な枠組み、文学的な枠組み。当時それはそそり立つ石壁みたいに見えた。個々の力では歯が立たない頑丈なものとして、それはそこにあった。でも今ではあちこちで石が崩れ、壁としての役目を果たせなくなっているみたいだ。/それは歓迎すべきことかもしれない。ただ正直なところを言えば、システムが頑丈だったときの方が、けんかはしやすかった。(P205)